舞鶴赤レンガ倉庫群(まいづるあかレンガそうこぐん)は、
京都府舞鶴市の旧舞鶴海軍軍需部本部地区
(現・舞鶴港ウォーターフロント)にある12棟の赤煉瓦倉庫。
北吸赤れんが倉庫群とも。文化財指定名称は舞鶴旧鎮守府倉庫施設。
国の重要文化財および近代化産業遺産。
1901年(明治34年)に舞鶴の地に舞鶴鎮守府が創設され、
明治・大正時代を通じて旧日本海軍によって建てられた赤煉瓦造りの建築物である。
なかでも、舞鶴市の東舞鶴・北吸地区に現存する倉庫群は12棟で、
建造年代は1901年(明治34年)から1903年(明治36年)の明治期にかけて9棟建てられ、
1918年(大正6年)から1921年(大正9年)の大正期にかけて3棟建てられたものである。
(Wikipediaより)
※左側:旧舞鶴海軍兵器廠弾丸庫並小銃庫
- 明治35年竣工、現・赤れんが3号棟(まいづる智恵蔵) - 重要文化財
右側:旧舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫(雑品庫並損兵器庫とも)
- 明治35年竣工、現・赤れんが4号棟(赤れんが工房) - 重要文化財
突当り:旧舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫(雑品庫並損兵器庫とも)
- 明治35年竣工、現・赤れんが4号棟(赤れんが工房) - 重要文化財
(Wikipediaより)
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現・赤れんが4号棟(赤れんが工房)では
市民展覧会をされてました。
※レンガの微笑~
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現・赤れんが3号棟(まいづる智恵蔵)
窓の外は現・赤れんが4号棟(赤れんが工房)が~
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旗行列行進順路
西舞鶴ですね。
※東舞鶴(新舞鶴)
終戦時の思い出地図
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舞鶴支援学校 小学部
鬼が出てくる絵本を読んでの
迫力あるイメージ画
※松澤 初穂(まつざわ はつほ、1914年1月8日 - 2011年1月1日)は、
京都府出身の元女子水泳選手。
1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに競泳女子代表として出場した。
舞鶴市に生まれる。父は大日本帝国海軍の軍人であり、一時横須賀市に移ったが、
関東大震災のため舞鶴に戻った。
水泳に取り組むきっかけは、高等女学校3年のときに訪れた。
父の退役に伴い転校した市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)には、
プールと水泳部があり、当時の水泳部顧問にクロール泳法を習ってめざましい進歩を見せた。
翌年、大阪府立女子校の水泳大会に出場して50メートル自由形で日本記録に並ぶ好記録を出し、
さらに次の年には50メートル自由形及び100メートル自由形で日本新記録を出していた。
日本女子体育専門学校卒業後は母校である市岡高等女学校の教師となり、
1936年ベルリンオリンピックでは、日本選手団水泳競技の
役員(トレーナー兼コーチ)として参加した。
ベルリンには、シベリア鉄道を使った12日間の長旅となった。
列車備え付けのシャワーは料金が高くて使えず、ベルリンへ到着するなり選手たちは
お風呂代わりにプールへ直行したと記述を残している。
このオリンピックでは、前回ロサンゼルスオリンピック
200メートル平泳ぎ銀メダリストの前畑に日本中の期待が集まっていた。
同種目の決勝前夜、緊張で寝つかれない前畑のために、他の選手たちはマッサージを行ったり、
歌を歌ったりして前畑の不安を和らげることに努めた。
前畑との友情はその後長く続き、前畑の死の5ヶ月ほど前に見舞いに行ったとき
何度も引き止められたという。
他の選手に対しても癖や気持ち、境遇まで理解して指導し、
自身の経験から全選手の生理の記録を取って体調管理を万全にした。
(Wikipediaより)
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舞鶴空襲
舞鶴海軍工廠
空襲を受けた7月29日、海軍工廠では一万人以上の人が勤務していた。
午前8時頃に米軍機が飛来し爆弾を投下、第一造兵部水雷工場付近に
落下し工員・女子挺身隊員・師範学校生徒など97人が死亡した。
この日投下された爆弾は、原子爆弾の投下練習を目的とした模擬原爆だった。
翌30日にも空襲を受け工廠内に多くの爆弾が投下されている。
(都市空襲HPより)
※肉じゃがはビーフシチューだった?
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平和な今では
のんびり散歩できます。
※向うの倉庫群に~
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見返って~
※楮の実
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現・赤れんが4号棟(赤れんが工房)
※こちらは~
旧舞鶴海軍需品庫需品庫3棟は内部非公開。
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潮風が遊んでいました。
※鉄サッシではなく
鉄板ですね。
内部は見えない~
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トロッコが敷かれていたとか。
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木製電柱
電球はLED
※このまま残してほしいですね。
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見返って~
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ええなぁ~
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海上自衛隊 舞鶴造修補給所の岸壁
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