古/いにしえの面影       其の一阡四百一
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2016年05月13日 金曜日
アップ日  2019年03月22日 金曜日
兵庫県神戸市中央区下山手通(生田神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
春爛漫、エエ天気に誘われて~
生田神社(いくたじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区下山手通一丁目にある神社である。
式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。廣田神社・長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する神社。
長田神社・湊川神社とともに神戸を代表する神社の一つ。
かつて、現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」という地名の語源となる。
地元では「生田さん」として親しまれている。
201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、
稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。
(=私は“いくた”の“ながさの国”におりたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて
生田の土地に祀らせてほしい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。。
(Wikipediaより)
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

コンバースの聖地
柿本商店さん
高架下から移転前のワンカット

生田ロードのアーチも
鳥居に見えます。

※ガス灯では無いですが~

紅花トチノキ
マロニエと米国産のアカバナトチノキ (Aesculus pavia) を交配した
ベニバナトチノキ (Aesculus x carnea) も街路樹として使用される。
日本では大正時代から街路樹として採用されるようになった。
しかし湿気のある土地を好むため、東京などの大都市とは相性が悪い。
(Wikipediaより)

当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。799年(延暦18年)
4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、
村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。
平城天皇の806年(大同元年)には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、
現在の神戸市中央区の一帯が社領であった所から、神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)が
この地の呼称となり中世には紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と呼ばれるようになった。
延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、名神大社に列し、
月次・相甞・新甞の幣帛に預ると記されている。
近代社格制度のもとで1871年(明治4年)に県社に列格し、
その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、
1896年(明治29年)には官幣中社に昇格した。
社殿は、1938年(昭和13年)の神戸大水害・1945年(昭和20年)の神戸大空襲・1995年(平成7年)の
阪神・淡路大震災など何度も災害などの被害にあい、そのつど復興されてきたことから、
「蘇る神」としての崇敬も受けるようになっている。
(Wikipediaより)


※灘五郷酒造の碑
新羅からの客人に当社で醸造した神酒を振舞っていたことが伝えられている。
その由縁から毎年神酒を醸造し、新羅の客人が来朝するたびに邪気を祓う為、
生田の地で醸された神酒を振舞った。
新羅の客人の罪穢れを祓い心身共に清々しくさせ、
心を和ませるといった朝貢外交以上に平和外交上重要な役目を担っていた。

(生田神社HPより)

境内摂社
松尾神社サン

※楼門

狛犬阿

※吽

生田の森碑

※百度石
弁柄色の手水舎

瓦には桜紋
花弁も~

※手水鉢

生田森碑
右 兵庫播磨道 道標

※秋風に またこそ訪(と)はめ 津の国の 
生田の森の 春のあけぼの 
順徳院

 
左 京大坂

※勅願所(ちょくがんしょ)とは、時の天皇・上皇の勅願により、
鎮護国家・玉体安穏などを祈願する神社。
勅願宮、勅願社とも称する場合もある。
(Wikipediaより)

梶原の井
「かがみの井」とも云われ、壽永の昔(800年前)源平生田の森の合戦の折、
梶原景季がこの井戸の水を汲んで生田の神に武運を祈ったと伝えられる。
別説では景季がこの井の水を掬った時、咲き盛った箙のうめの花影が映ったとの伝もある。
(生田神社HPより)


※


※四方を海に囲まれたわが国にとって、大量・長距離物流の要として発展してきた海運は、
今日では国民生活や産業活動を支えるライフラインとして重要な役割を果しております。
その中で当社は、1963年(昭和38年)1月23日に
プリンス自動車工業株式会社様(現日産自動車株式会社様)の海上輸送の為、
創業者、長手繁雄により設立され、以来、半世紀にわたり、
安全・安心かつ良質な海上輸送サービスを提供し、日本の海上輸送の一翼を担ってまいりました。
(プリンス海運HPより)


菊花紋

※国旗掲揚台

拝殿舎

※本殿舎の屋根がチラリと~

青銅製狛犬
阿

※吽

蛭子神社サン

※

安政の大地震で両脚の基部を破損した生田の折れ鳥居として
信仰を生みつつ親しめられている。
(看板より)

安政の大地震(あんせいのおおじしん/だいじしん)は、
江戸時代後期の安政年間(1850年代)に、日本各地で連発した大地震である。
世にいう「安政の大地震」は、特に1855年(安政2年)に発生した
安政江戸地震を指すことが多いが、この前年にあたる1854年(安政元年)に
発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および、
安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、
その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含め
「安政の大地震」と総称される。
(Wikipediaより)


※さざれ石

戸隠神社

※生田弁財天

活田の桃
日本書紀に今から1200年前の天武天皇9年の条に「正月20日、
攝津の国、申さく、活田村に桃李実なれり」とある。
(看板より)


※

梶原の井
えびらの梅

※生田の森
秋とだに吹きあへぬ風に色かはる 生田の杜の露の下草
(藤原定家 続後撰和歌集)
津の國の生田の杜に人はこで月に言とふ夜はのあきかぜ
(中務卿宗尊親王 新後撰和歌集卷第五秋歌下)


799年の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたが、洪水を防ぐ役割を全く果たさなかった。
その故事から、今でも生田の森には1本も松の木は植えられていない。
また過去には能舞台の鏡板にも杉の絵が描かれ、元旦には門松は立てず杉飾りを立てる。
(Wikipediaより)


※



※蒲鉾の発祥の地
へぇ~

生田森坐社サン

※稲荷神社サン

2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した
熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が
忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。
平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、
やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。
直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に
土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。
午前6時、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には
範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。
範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。
平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ源氏軍をひるませる。
平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。
範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。
そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、
ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。
(Wikipediaより)


楠の神木
昭和20年6月5日の神戸大空襲で焼けただれた
約500年の年輪

※稲荷社

前には~

※稲荷社鳥居

包丁塚包丁塚料理に携わる人達の魂の籠った庖丁に感謝すると共に、
食文化の向上を願い、皇太子殿下御成婚・第61回神宮式年遷宮の
記念事業として神戸市内の料理食品関係者によって建立された、
全国でも珍しい塚である。
(生田神社HPより)


※生田の森東口

生田神社社殿東、三社の一社

※楼門見返って~


※

大海神社サン
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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