古/いにしえの面影       其の一阡四百五
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2016年12月07日 水曜日
アップ日  2019年03月28日 木曜日
大阪府大阪市浪速区幸町(安政大津波の碑)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
エエ天気に誘われて~
安政の大地震(あんせいのおおじしん/だいじしん)は、
江戸時代後期の安政年間(1850年代)に、日本各地で連発した大地震である。
世にいう「安政の大地震」は、特に1855年(安政2年)に発生した
安政江戸地震を指すことが多いが、この前年にあたる1854年(安政元年)に
発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および、
安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、
その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含め
「安政の大地震」と総称される。
(Wikipediaより)
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

安治川水門
津波対策
(西区安治川)

エエ天気です~
UFO先生2号

※尻無川河口近く
(港区南市岡)

尻無川沿いに瓦商店さんが並んでいます。



堤防上ブロックには
仮水門



瓦バックに~

※大阪ドーム(現 京セラドーム)バックに~

川向こうに
ハルカスが…

岩崎運河橋(大正区三軒家)
ダブルワーレントラス (Double Warren truss) とは、
斜材をすべて「X字形」に交差したもの。斜材への負担のかかり方は、
通常のワーレントラスと変わらない。垂直材を追加したタイプもある。
日本では明治時代に架けられた鉄橋のうち、1径間(1スパン)が比較的長い箇所では、
ワーレントラスを採用すると強度が不足するため、
強度を高められたダブルワーレントラスが採用された。
しかし、径間や強度の割に多くの鋼材を要するため、
技術が進んだ大正時代以降は採用が減少した。
(Wikipediaより)


※対岸風景と
大阪ベイタワー

本瓦家屋
(大正区三軒家)
一段高く嵩上げしてますね~

※防潮堤の内部風景

道頓堀・尻無川と木津川が交差する
大正橋上から~
道頓堀川水門

※千日前通東詰め歩道上に
供養碑は在ります。

天下和順 日月清明
風雨以時 災厲不起

願以比功潓 普及於一切
我等興衆生 皆共成佛道

南無阿弥陀仏も
南無妙法蓮華経も
併記されて~
石標文字には墨入れされてます。

※下段表示

嘉永七年(一八五四年)六月十四日午前零時ごろに大きな地震が発生した。
大阪の町の人々は驚き、川のほとりにたたずみ、余震を恐れながら四、五日の間、
不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良では死者が数多く出た。
同年十一月四日午前八時ごろ、大地震が発生した。以前から恐れていたので、
空き地に小屋を建て、年寄りや子どもが多く避難していた。
地震が発生しても水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところへ、
翌日の五日午後四時ごろ、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、
その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに一斉に津波が押し寄せてきた。
安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀まで約一・四メートルの
深さの泥水が流れ込んだ。両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、
川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、
汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちてしまった。
さらに、大きな道にまで溢れた水に慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もあった。
道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し川をせき止めたため、
河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった。 
大黒橋から西の道頓堀川、松ヶ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、
一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は流れてきた船によって壊され、
その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった。
また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると心配した人々が上町方面へ慌てて避難した。
その昔、宝永四年(一七〇七年)十月四日の大地震の時も、小舟に乗って避難したため
津波で水死した人も多かったと聞いている。
長い年月が過ぎ、これを伝え聞く人はほとんどいなかったため、
今また同じように多くの人々が犠牲となってしまった。
今後もこのようなことが起こり得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、
船での避難は絶対してはいけない。
また、建物は壊れ、火事になることもある。お金や大事な書類などは大切に保管し、
なによりも「火の用心」が肝心である。
川につないでいる船は、流れの穏やかなところを選んでつなぎ替え、早めに陸の高いところに運び、
津波に備えるべきである。
津波というのは沖から波が来るというだけではなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもあり、
海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもある。
今回の地震で大和の古市では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、
これに似た現象なので、海辺や大きな川や池のそばに住む人は用心が必要である。
津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、
十分心得ておきなさい。犠牲になられた方々のご冥福を祈り、
つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、
伝えていってほしい。
安政二年(一八五五年)七月建立

(大阪市HP浪速区より)

道頓堀川水門

御堂筋の銀杏も
青空に映えて~

※目的は~

国産ビール発祥の碑
(北区堂島)
「わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが、
日本人の手によるものとしては、澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。
当初は大阪通商会社で、明治4年(1871)に計画された。
これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが、実現には至らなかった。
この計画を通商会社の役員のひとりであり、
綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ、明治5年3月から、
このあたりに醸造所を設け、ビールの製造・販売を開始した。
銘柄は「澁谷ビール」といい、犬のマークの付いたラベルであった。
年間約32~45キロリットルを製造し、中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。」

(大阪市教育委員会案内板より)

私は、こちらの方が気に成って~
鉄サッシでコンクリ製

※大川(旧淀川)銀橋から
曙杉の紅葉楽しんで…帰宅。。
(北区天満)
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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