古/いにしえの面影       其の一阡四百四拾四
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年10月29日 日曜日
アップ日  2019年05月14日 火曜日
大分県杵築市杵築城山(北台・酢屋の坂)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

台風22号:アジア名サオラー(Saola)と命名された。
25日夜にはフィリピン大気地球物理天文局(PAGASA)によって
フィリピン名ケーダン(Quedan)と命名された。
その後は発達しながら北上、西日本・東日本の太平洋側、奄美地方、沖縄県に大荒れの天気をもたらし、
30日0時に三陸沖(北緯38度、東経144度)で温帯低気圧となった。
30日正午には千島近海で944hPaに達し爆弾低気圧となった。
台風の中心が陸地から離れていたことから、本州・四国では21号のような豪雨にはならなかったが、
宮崎県では記録的な大雨となった。
また、湖西線・阪和線は、30日の午前中まで運休した。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区は、
かつての杵築藩の城下町の武士の居住区である。
2017年(平成29年)11月28日に重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
杵築の中心部は、守江湾に向けて東に延びる台地が、
中央に走る谷によって南北に分けられており、
北側の台地は北台、南側の台地は南台と呼ばれる。
かつて杵築藩の城下町であった時代には、北台と南台がそれぞれ武家地とされ、
その間の谷や台地の周囲が町人地とされていた。
このような構造はサンドイッチ型城下町といわれ、日本唯一とされている。
北台と南台の間は多数の坂で結ばれ、
酢屋の坂や塩屋(志保屋)の坂をはじめとする石段や石積みの坂道が、
この地区の歴史的景観を特徴付けている。
2つの台地の間や周囲に広がる町人地は、戦後、道路が拡幅されたが、
北台及び南台の武家地には杵築藩時代の地割がよく残っている。
また、北台、南台ともに江戸時代に数度の大火に遭っているが、その都度再建されており、
江戸時代末期の武家屋敷がよく保存されている。
(Wikipediaより)


※城下町です。

台地なんです。

※岩鼻の坂

谷町唯一の井戸とか~
士農工商、皆で井戸管理したとか~



木鼻の坂上って~

※昔のまま~

北台の上の段

※石垣と屋根の広い家屋に
目が行きます。
緩やかな傾斜屋根(雪が降らない)
低い軒(台風被害)


このまま走れば
空に浮かびそう~

※何の台座でしょうか?
杯状穴の塊!

杵築小学校



東に向いた
坂道
先は杵築城

※見返って~

杵築藩家老大原邸
「大原邸」は『居宅考(きょたくこう)』に、宝暦のころは相川東蔵(120石)が住み、
東蔵が知行返上後、中根斎(家老新知350石)、岡三郎左衛門を経て、桂花楼となったとあり、
御用屋敷桂花楼の場所であったと伝えられています。
「町役所日記」によると、天保3年(1832年)に大手広場にあった牡丹堂に桂花楼は移り、
その後は御用屋敷として続いていたようです。
明治元年(1868年)の絵図では、大原家の屋敷となっています。
嘉永(1848年から1853年)の藩士帳にみえる用人大原文蔵(200石)の屋敷地です。
(杵築市HPより)




茅葺屋根がチラリと~
入りたかったなぁ~

※能見邸家屋
桟瓦ですが傾斜の少ない広い屋根。

能見松平家(のみまつだいらけ)は、
三河国の松平氏の庶流。松平信光の八男・光親を祖とする。
三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)を領したことから能見松平家と称す。
元和2年(1616年)に下総国関宿藩2万6千石の大名となる。
他の松平分家と比較すると遅い出世となるが、これは当主の松平重勝が
家康の六男・松平忠輝の付家老であった為と考えられる。
重勝の功績の数々が認められたため、忠輝の改易に連座することはなく、
独立大名として取り立てられた。
重勝の長男以外の子たちも大名として取り立てられ、それぞれ分家を興している。
その後、本家は遠江国横須賀藩2万6千石、出羽国上山藩4万石、摂津国三田藩3万石、
豊後国高田藩3万7千石と転封を続けたが、
7代・松平英親の時に移封した豊後国杵築藩3万2千石に定着し、幕末まで存続する。
(Wikipediaより)




藩の重鎮が登城したんでしょうね。

※笹紋でしょうか?

「藩校の門」と呼ばれる歴史遺産がそのまま小学校の校門となっています。
江戸時代から残る藩校学習館の「藩主御成門」が、
現在でも杵築小学校の校門として子供たちを迎えています。
このようなケースは全国でも非常に珍しく
、藩政の頃から学問に力を入れてきたこの土地の風土が今に続くものです。
その礎を築いたのが杵築藩初代藩主の英親。以来、代々藩主は文教に力を入れ、
七代藩主・親賢(ちかかた)は教育の基礎をまとめ1788年に藩校となる「学習館」を設立しました。
(杵築市HPより)


※士族の子弟はもちろんのこと、平民の子弟も藩校へ通うことが許されました。
教授には三浦梅園や帆足万里ゆかりの者たちが起用されるなど、質の高い教育を行い、
その結果、数多くの人材がここから輩出されました。
(杵築市HPより)


学習館はその後明治の廃藩置県によって廃校となりましたが、
その気風は「小学校」にも受け継がれ、
小学校の敷地内にある藩校模型学習館には「学習館」の
復元模型を設置公開しています。
(杵築市HPより)




二宮尊徳像

井戸跡

※東へ~

エエ感じです~

※杯状穴も~

見返って~



加藤与左衛門(200石)屋敷
磯矢邸(杵築市栗原克実美術館を併設)
藩政時代のこと、このあたりは「北台家老丁」と呼ばれていました。
この屋敷は、『居宅考』によると、宝暦(1751年から1763年)のころは、
安西源兵衛が住んでいましたが、寛政の大火(1800年)の後、
御用屋敷である「楽寿亭」の一部に組み込まれました。
楽寿亭は、文政7年(1824年)に廃止されましたが、その後、
再び武家屋敷になり、明治初年の「藩士住居地図」や加藤家寄贈文書類の調査から
加藤与五右衛門(200石)の屋敷だったと分かりました。
屋敷は、明治以降の増改築部分を除き、文政天保期(19世紀前半)のものと思われていましたが、
最近の調査で、文久4年(1864年)と刻まれた瓦や、元治元年(1864年)の棟札などが発見されています。
なお、当施設は修復後、平成9年(1997年)4月から一般公開され、
また、その施設の一角に「杵築市栗原克実美術館」を設置し、
千葉県在住の栗原克実画伯から寄贈された貴重な水墨画の数々を展示しています。
(杵築市HPより)




儂も年かな?
この坂がシンドクナッテきた~
なんて愚痴が聞こえたような~~



土壁築地

※何時時代の道標ですかね?
至 杵築城

雨で滑らないように~

※見返って~

勘定場の坂
ですと…

※大分合同新聞(おおいたごうどうしんぶん)は、
有限会社大分合同新聞社が編集・発行する大分県の地方紙である。
1942年(昭和17年)に豊州新報と大分新聞とが合併し、同年4月3日に創刊された。
合同新聞という名称は、これら二紙が合同したことに由来する。
大分合同新聞社の創立年とされる1886年(明治19年)は、
豊州新報の創刊年である。なお、大分新聞は1889年(明治22年)創刊。
(Wikipediaより)


台地下の商人の町へ~
基本的に長屋なんですかね?
空き地との取り合いはトタンが目立ちます。



庇には
丸サ金具~



杵築市役所(杵築藩総役所跡)

※昭和の向こうに
江戸が居る。

此処にも~

※みどり牛乳箱
九州乳業は、1本の牛乳からお客様の
健康に役立てる企業を目指し、昭和39年に創業を始めました。
今でもその思いは変わらずに一人ひとりの社員に受け継がれており、
大分県の酪農家が365日、大切に育てる乳牛のミルクを、
何ひとつ無駄にはせず、心をこめた製品とし、
お客様のもとへお届けをしています。
(九州乳業株式会社HPより)


鶴川駅、下原駅、立石駅
駅名は合わないですが~
国東線(くにさきせん)は、かつて大分県杵築市の杵築駅から、
国東半島東部にある同県東国東郡国東町(現・国東市)の
国東駅までを結んでいた大分交通の鉄道路線である。
駅および停留所同士の間隔が狭く、沿線集落の住民の生活に密着していた。
国東半島はそのほぼ中心にある両子山から沿岸部に向かって
幾筋もの谷が続き、その谷に沿って集落が点在している。
したがって内陸の集落から沿岸部に出るのは比較的容易であるが、隣の谷筋に行くのは非常に不便であった。
この点も考慮し、特に安岐駅以北は主要な谷筋ごとに必ず駅または停留所が配置されていた。
潮干狩りの時期には臨時に「貝掘り列車」、花見の際には八幡奈多宮の「花見列車」を出した。
また、みかんや七島イの輸送に使われたりと人々に長い間親しまれていた。
千光寺の坂(八坂停留所 - 祇園駅間)、祇園の坂(祇園駅 - 若宮臨時停留所間)、
塩屋の坂(志口停留所 - 安岐駅間)といった急坂は、いずれも距離が長かったので、
乗客の多いときなど一度では上りきれずに後退してしまうことがあった。そのようなときは思い切って戻り、
勢いをつけて全速力で上っていったが、それでも上りきれないときには
乗客に坂の間だけ降りて歩いてもらったものである。
ひどいときには乗客に後ろから押してもらうようなこともあった。
特に戦中戦後の燃料事情の悪いときには、日常茶飯事のことであった。
(Wikipediaより)


※宇佐駅まで
みかん栽培や七島イの栽培が隆盛をきわめる中、国東線の経営もすこぶる順調であった。
富来までの工事が予定され、用地確保もなされていた。
最終的には宇佐参宮線と結び国東半島一周鉄道を形成する構想もあったが、
これらは諸般の事情で実現しなかった。

  (Wikipediaより)


備後屋さん
豊後では無いんですね。
そうか~瀬戸内海挟んで対岸ですか…

※萬力屋さん

 伊能忠敬測量隊別宿跡
文化6年(1809年)から始まった九州第一次測量は、
豊前小倉(現・北九州市)で越年し、ここから九州測量を始めた。
小倉から海岸線を南下し、2月12日に大分、28日に鳩浦(現・津久見市)に入った。
鳩浦では3月1日に起こる日食を観測したが、天候が悪く失敗した。


前には

南台と商人の町との段差

※家紋などの鏝絵

此の段差!

※松本呉服店

鶴?
自由奔放な鏝絵~

※飾り瓦

谷町地区急傾斜地崩壊危険区域
ですと~

※日本でただ一つといわれる“サンドイッチ型城下町”。
どうしてこう呼ぶのか、この坂を歩いてみるとその理由がわかる。
塩屋の坂と酢屋の坂、これら二つの坂は谷町通りを挟み向かいあうように一直線に結ばれている。
つまり、杵築城を中心に据え、それぞれの坂の上、南北の高台に屋敷を構える武士たちは、
その谷あいで商いをする商人たちの町を挟むように暮らしていたのである。
塩屋の坂から振り返るようにして酢屋の坂を眺めてみると、
凹凸のある形状がまさに“サンドイッチ”のように見えてくる。
(杵築市HPより)


南台段差

※赤味噌分けて頂きました~

大きな商家です。

※海鼠壁
商人の町の道路拡幅時に
どちらに拡幅するかで揉めたでしょうね~

坂道の多い杵築の町のなかでも、もっとも美しいと言われるのが北台へと上る「酢屋の坂」。
その上り口に店を構えるのが、創業明治33年の「綾部味噌」だ。
市指定有形文化財にもなっている堂々とした店舗は
18世紀中頃(開国か攘夷かで江戸幕府が揺れていた頃)に
建てられたもので、前身は豪商・志保屋が営む酢屋だった。
酢屋の坂、対面する志保屋の坂の名の由来である。
(大分県杵築市観光協会公式HPより)

庇にも意匠~

※ひっかけ釘では無く~
これも意匠

酢屋の坂

※南台の塩屋の坂
此処を鉄道走ったの!

北台の上は大原邸の土蔵

※岐部酒店さんで
お酒も分けて頂きました。

神田米穀店さん

※大黒天
鏝絵~

岩に掘りこんだ
祠~
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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