古/いにしえの面影       其の一阡四百四拾三
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年10月29日 日曜日
アップ日  2019年05月13日 月曜日
大分県杵築市杵築城山(杵築城址)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

台風22号:アジア名サオラー(Saola)と命名された。
25日夜にはフィリピン大気地球物理天文局(PAGASA)によって
フィリピン名ケーダン(Quedan)と命名された。
その後は発達しながら北上、西日本・東日本の太平洋側、奄美地方、沖縄県に大荒れの天気をもたらし、
30日0時に三陸沖(北緯38度、東経144度)で温帯低気圧となった。
30日正午には千島近海で944hPaに達し爆弾低気圧となった。
台風の中心が陸地から離れていたことから、本州・四国では21号のような豪雨にはならなかったが、
宮崎県では記録的な大雨となった。
また、湖西線・阪和線は、30日の午前中まで運休した。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

 杵築大橋渡って~

※河口は守江湾

 天満社旧跡



 八坂川(やさかがわ)は、大分県杵築市を流れ、伊予灘の守江湾に注ぐ二級水系の本流。
大分県北西部の国東半島南部に位置し、杵築市と速見郡日出町、
宇佐市の境界付近にある鹿鳴越(かなごえ)連山の鳥屋岳に源を発する。
豊の国名水15選に選ばれ、名水として知られる杵築市の水の口湧水も、その源流のひとつである。
下流部には、河口近くにある杵築城を中心として、左岸(北岸)の丘陵に城下町が発達し、
現在の杵築市街地となっている。
近年では河口側の幹線沿いに商業施設が進出している。
杵築市の中心地をすぎると、八坂川は伊予灘の守江湾に注ぐ。
八坂川の河口に広がる守江湾一帯は、干潮時には東西1.5km、南北2kmにわたる干潟となっており、
河口から干潟にかけてカブトガニ、アオギスといった希少種が生息している。
また、シギ・チドリ類などの渡り鳥も豊富である。
このため、守江湾及び八坂川の河口部は
「守江湾(八坂川河口)」として日本の重要湿地500に選定されている。
(Wikipediaより)




 城下町の堤防は
是位の意匠が有っても良いなぁ~
前には

※旧城内城鼻地区に旧船形屋敷が現存し、
現在は民家として利用されている。

街には遊び心が~

※鏝絵
鶴亀

打出の小槌
小判まで~

※達磨・宝船

城山には
青筳神社サン
鳥居潜って

※扁額

見返れば~
大扇旅館前

※マンホール
カブトガニ

城山橋

※向こうに
杵築レトロ館
農協の古い米蔵で、館長有田さんが個人で収集してきたおもちゃやレコード、
人形、文房具用品、生活雑貨が2000点以上も展示されている。
生まれ育った環境の中に当たり前にあったモノたち、
役目を終えても愛おしくて捨てられなかったモノたちを集めた、
それが有田さんのコレクションスタイル。
(杵築市観光協会HPより)

コンクリ製の階段登って~

※手水舎

山麓居館部は、現在の杵築神社、杵築中学校一帯に位置し、
神社北側に石垣が残っている。


※少年・少女よ待望を抱け
かな?

拝殿舎正面
昭和 11 年(1936)10 月、現在の杵築市城山公園内に
七島莚の振興に功績のあった人々を祀る青筵神社が建立されました。
祭神は、松平杵築藩初代藩主である松平英親、三代松平重休、日出藩三代藩
主木下俊長、府内商人橋本五郎右衛門の 4 柱です。
昭和 42 年には、市内の英霊 911 柱を合祀しました。
 社殿の建立には、当時の七島いに関わる地元業者が中心となり、
全県下から寄付が集まりました。
神社境内では、毎年 10 月、七島いの織り比べや品評会が開かれ、全国の莚問屋が訪れました。
 昭和 29 年(1954)には城山に上る入り口に、地元問屋であった吉見商店(植木文蔵商店)を
願主とした大鳥居や西川甚五郎商店(昭和 15 年)による灯籠が建立され、
今でも信仰され続けています。
(杵築市HPより)


※扁額

拝殿舎内部
注連縄は七島莚ですかね。
七島いで織った畳表は、「豊後表」「豊後の青表」で有名。
七島いで作られた畳表は昔から「いぐさは 3 年
ほどで駄目になるが、七島いは 10 年は持つ」とい
われるほど丈夫で長持ちするので柔道畳などにも
使われてきました。また耐火性も高いとされ、
炭鉱や養蚕を行う農家で重宝されました。
(杵築市HPより)


※勿論
私は良いと思います~

狛犬


※吽

尻尾は~



天守閣と旧船形屋敷、八坂川の位置関係~

※軒の浅い家屋です。

見返って~



櫓は無いですが~

※法政大学創立者顕彰碑
伊藤 修(いとう おさむ、1855年(安政2年)-1920年(大正9年))は日本の弁護士。
東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人。
1855年(安政2年)、豊後国杵築藩士の子として生まれる。
1877年(明治10年)に代言人試験に合格し、法学塾の「法律学舎」を
開いていた元田直の下で、訴訟業務に従事する。
1879年(明治12年)に金丸鉄、薩埵正邦らとともに東京法学社を設立する。
1920年(大正9年)に死去。墓は大分県杵築市の養徳寺にある。

金丸 鉄(かなまる まがね、1852年(嘉永5年) - 1910年(明治43年))は、日本の法学者。
フランス法の流れを汲む法律家で、法政大学創立者の一人。豊後国杵築藩出身。
法政大学の前身である東京法学社を設立した。
金丸のほかに、同じ豊後国出身の伊藤修や薩埵正邦も設立に尽力した。
19歳の時に上京。東京法学社設立以前には、独力で出版社「時習社」を設立し、
1877年8月11日、時習社の社長兼編集長として日本最初の法律専門雑誌『法律雑誌』を創刊した。
この頃、郷里の先輩で浅草に法律学舎を開いていた元田直と親交を結び、薩埵正邦とも知り合った。
元田の助力を得て、元田のもとにいた代言人である伊藤修らとともに東京法学社を設立することになる。
その後、大阪府で弁護士を開業、1886年(明治19年)に大阪府会議員に当選し、
府会に『箕面公園新設の議』を提出し、箕面公園開設に尽力する。
また、平民主義を持論とし、華族廃止論を唱道していた。
(Wikipediaより)


日露戦争
忠魂碑

櫓は此処に~

※市民の寄付により建築

城山公園には
市内の石造物が集められています。
葷酒禁門内

※庚申塔

庚申塔

※石造塔

敬老記念碑

※孝子塚

孝女 はつ

※小串兄弟碑

北浜塩田
中矢氏功績記念碑

※国東塔

庚申塔

※宝篋印塔

一字一石塔・一石五輪塔

※石燈籠

供養塔

※無縫塔・地蔵尊…

沢山~

※石仏沢山!

杵築城復元記念碑
八坂 善一郎 筆

※八坂善一郎翁胸像
八坂 善一郎(やさか ぜんいちろう)
明治28(1895)年~昭和55(1980)年
杵築野田の人。
38歳の若さで別杵自動車社長に就任し、青年実業家となる。
昭和14(1939)年に県議会議員、昭和21(1946)年には衆議院議員に当選。
昭和30(1955)年、合併による杵築市誕生で初代市長となり、
5期20年にわたり全国的にも稀な特色のある市政の推進・産業の発展に尽力した。
杵築市名誉市民。
(杵築市HPより)

 
八坂善一郎翁胸像建立寄付者芳名碑

 木付城址碑

※黄葉の季節!

杵築城(きつきじょう)は、大分県杵築市杵築にあった城郭。大分県指定史跡。
明徳4年(1393年)に、木付頼直により築かれた。
戦国時代、島津氏の大軍に攻められるが、籠城の末これを退けた。
しかし、後に主君の大友義統が文禄の役での失態の責めを負って豊臣秀吉により幽閉されると、
当主木付統直は自刃し木付氏も滅びた。
その後、前田玄以、秀吉の腹心だった宮部継潤、杉原長房、
続いて慶長4年(1599年)には細川忠興の所領となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置いた。
寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利が熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。
その後、正保2年には松平英親(能見氏)が豊後高田藩より3万2千石で封じられ、
その後明治維新まで居を構えた。
現在、山上は城山公園として整備され、一部石垣が残る。
天守は慶長13年(1608年)に落雷で焼失して以来再建されなかったが、
現在本丸の天守台跡には3層の模擬天守が建てられ資料館として利用されている。
(Wikipediaより)




宮本武蔵も杵築に…??



台風で増水した八坂川の
干潟

※上流部望む

扁額



疑似天守なんです。
前には


やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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