若狭野町の条里制圃場
圃場整理をしますと、水田は正確な長方形になります。
畔が曲がっているところが条里制の遺構です。
(相生市立歴史民俗資料館HPより)
(Googleマップより)
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相生有年道路(あいおいうねどうろ)は兵庫県相生市若狭野町鶴亀から
兵庫県赤穂市東有年に至る全長8.6 kmの国道2号バイパスである。
(Wikipediaより)
※バイパスの左側集落が
旧山陽道です。
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旧街道から脇道
※先に~
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この広場、神宮寺跡でしょうか?
※須賀神社擁壁施行記念碑
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拝殿舎正面。
※本殿舎
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狛犬代わりの自然石
阿
※吽
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拝殿舎内飾りは
この龍の頭だけが~
※擁壁記念碑には
上松自治会銘
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見返って~
※街道からは傾斜道
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近くの広場に
忠魂碑
※顕彰碑
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忠魂碑
川村 景明(かわむら かげあき、
嘉永3年2月26日(1850年4月8日) - 大正15年(1926年)4月28日)は、
日本の陸軍軍人、華族。
東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任した。
官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級子爵。
薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男として薩摩に生まれ、後に川村新左衛門景尚の
養子となり川村家を継ぎ、川村源十郎と名乗る。
薩英戦争・戊辰戦争に従軍、明治2年(1869年)4月、
薩摩藩歩兵第1大隊第1小隊小頭に就任。
明治4年(1871年)4月に上京し同7月から御親兵付・陸軍軍曹として
明治新政府に仕える。
明治5年(1872年)7月、陸軍少尉・近衛歩兵第2大隊付となり、
翌年、陸軍中尉に進む。
この間に石本新六から仏語を学ぶ一方で陸軍に勧誘する。
1874年(明治7年)4月、陸軍大尉・広島鎮台勤務を命ぜられる。
1876年(明治9年)4月、歩兵第11連隊大隊長心得を拝命し萩の乱に出征する。
翌年2月から征討第3旅団隷下として西南戦争に出征、
戦中の4月に陸軍少佐に進み歩兵第11連隊大隊長となる。
1882年(明治15年)2月、陸軍中佐・歩兵第4連隊長の後熊本鎮台参謀長、
第6師団参謀長、参謀本部第1局長を経験し階級は陸軍大佐に昇る。
明治23年(1890年)6月、陸軍少将・歩兵第8旅団長を命ぜられ、
同27年(1894年)8月、近衛歩兵第1旅団長に移り日清戦争に出征する。
功により明治28年(1895年)12月、男爵を授けられ華族に列せられる。
明治30年(1897年)10月、陸軍中将・第1師団長に就任。
明治34年(1901年)4月、伏見宮貞愛親王の後任として第10師団長に就任する。
明治37年(1904年)5月から日露戦争に出征し、この戦役の際、
陸軍大将・鴨緑江軍司令官に就任し奉天会戦に参加。
戦後、軍事参議官兼東京衛戍総督となり、勲一等旭日桐花大綬章・功一級金鵄勲章を賜る。
明治40年(1907年)9月、子爵に陞爵する。
大正4年(1915年)1月には元帥府に列せられる栄誉を賜る。
大正8年(1919年)12月から帝国在郷軍人会会長を務める。
大正15年(1926年)4月28日、会長在任中に薨去。薨去に際し大勲位菊花大綬章が贈られた。
墓所は東京都港区南青山・青山霊園。
(Wikipediaより)
※大正14年建立
亡くなる前の年ですか~
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玉垣にフックが~
鎖は供出したんでしょうか?。
※
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大東亜戦争戦没者芳名碑
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水準点
※大切に!
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