古/いにしえの面影       其の一阡四百拾四
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年09月14日 木曜日
アップ日  2019年04月03日 水曜日
長野県長野市長野元善町(善光寺)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
エエ季節に誘われて~
善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、
住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。
日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、
江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。
今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

上信越自動車道長野IC降りて~
千曲川渡って…
信濃川(しなのがわ)は、新潟県および長野県を流れる一級河川。
信濃川水系の本流である。新潟市で日本海に注ぐ。
このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、
長野県にさかのぼると千曲川(ちくまがわ)と呼称が変わる。
全長367キロメートルのうち、信濃川と呼ばれている部分が153キロメートルなのに対し、
千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと千曲川の方が長い。
ただし、河川法上では千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、
信濃川は日本で一番長い川となっている。
(Wikipediaより)

出張です~仕事です!
煙抜き付家屋

※小島田村役場之跡
小島田村(おしまだむら)は長野県更級郡にあった村。
現在の長野市小島田町にあたる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、近世以来の小島田村のうち千曲川以北の区域をもって発足。
1955年(昭和30年)1月1日 - 稲里村・真島村・青木島村と合併して更北村が発足。同日小島田村廃止。


長野市目指して犀川渡ります。
犀川(さいがわ)は、長野県内を流れる信濃川水系の一級河川。
一般に、松本市島内で奈良井川を合流させて以降の
下流部から長野市での千曲川との合流部までを指し、
上流部は梓川(あずさがわ)と呼ばれる。
(Wikipediaより)


※上流側

おお~
除雪車ですかね?
自走中。。

※道すがら~
飾り瓦が立派で
棟が高い家屋
前には

葛山(812m)バックに大伽藍

※駐車場に~

駐車場から~

※本堂
本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置する。
1953年に国宝に指定された。現存する本堂は宝永4年(1707年)の竣工。
設計は甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当した。
二階建のように見えるが、建築形式的には一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。
屋根は檜皮葺きで、屋根形式は撞木造(しゅもくづくり)という特異なものである。
これは入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、堂の手前の部分は南北棟、
奥の部分は東西棟になり、上方から見ると大棟の線が丁字状になっている。
平面構成は正面5間、側面14間の身舎(もや)の周囲に幅1間の裳階をめぐらした形になり、
裳階部分を含めた平面規模は正面7間、側面16間となる
(以上の説明文中の「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。
実長は間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルで、間口に比して奥行の深い、
日本の仏堂には特異な平面である。
(Wikipediaより)


平屋ですか~



大きな香炉

※獅子の口から煙が出る意匠なんですが~
煤が涎の様に…

 高岡の鋳物屋さん
前に

※親鸞聖人像
親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日)は、
鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。
法然を師と仰いでからの生涯に渡り、
「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、
さらに高めて行く事に力を注いだ。
自らが開宗する意志は無かったと考えられる。
独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。
親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、
宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。
(Wikipediaより)


建物南正面の奥行1間分は壁や扉を設けない「吹き抜けの間」とし、その先の奥行4間分が外陣、
その次の奥行5間分が内陣、建物のもっとも奥が内々陣となる。
内々陣は西(向かって左)に秘仏本尊の阿弥陀三尊像を安置する瑠璃壇があり、
その前に常燈明(不滅の法燈)がある。東(向かって右)は開山像を安置する
「御三卿の間」である。
「御三卿の間」には開山の本田善光と妻の弥生御前、子の善佐の像を安置する。
このほか、外陣に閻魔王像、内陣に地蔵菩薩像と弥勒菩薩像などを安置する。
国宝の附(つけたり)指定となっている厨子は「御三卿の間」にあるもので、
寄棟造、本瓦形板葺きとする。
(Wikipediaより)




境内風景

※本堂飾り

木鼻の象と獅子

※エエ職人の手ですね~

鐘楼

※青銅製の燈籠

山門
背面から~

※参道石畳
善光寺参道(敷石)
1714年完成。当時の敷石の枚数は7777枚、現在では6千枚強。
(Wikipediaより)


手水舎

※中々目が離せない
エエ彫刻ですね~

ぬれ仏(延命地蔵尊)
享保7年、善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊で、
明暦の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、
俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。
(Wikipediaより)


※六地蔵様

石畳踏みしめながら~
大きな燈籠

※仁王門へ

見返って~
山門正面

※向こうに本堂が見えます。

扁額

※大勧進

 寺社紋?
輪宝(りんぽう)
剣を輪の円周上から八方に向けた形状を持つインド古代の武具の一種で、
本来は古代インドの理想国王転輪聖王の秘宝であったが、
密教文化と共に仏神具として伝搬された。
密教の影響を受けた我が国でも、
刀身に守護を目的として施された輪宝図の彫刻例をみる。
また刀装具の図柄や家紋の図案としても用いられている。


※撫牛
菅原道真さんも?
「牛に引かれて善光寺参り」ですかね?

境内参道沿いに多くの御店が~

※色んな意匠で~

松屋旅館前の地蔵尊

※神輿ですね。

扁額

見事な彫刻です~

※龍

こちらも
見事な三龍



向かって右側

※左側

大本願
扁額

※鶴ですね。

仁王門
正面から~

※背面から~

仁王門の木鼻
獅子



象も獅子も
力強い彫

※象

仁王像








牡丹の花の透かし彫り



参道風景~



仏壇屋さん
大きな物だったら、
担いで帰れませんよね。。

※路地に石畳が光ります。

鐘楼

千人塚
弁柄色ですかね?

江戸時代初期の慶長年間に起こった
百姓一揆の犠牲者の冥福を祈って建てられた塔と言われています。
また、延宝年間に起こった百姓一揆、二斗八騒動で処刑された人々の
供養塔とも言われています。
(案内看板より)


※乳牛親子像
善子さんと光子さん
森永乳業奉納

徳川家大奥供養塔
三代将軍家光の夫人本理院、乳母春日局ら、江戸初期の大奥関係者の供養塔です。
善光寺如来様は幕府の女性から篤く信仰され、江戸で出開帳が行われた時には、
前立御本尊が江戸城に迎え入れられたこともありました。

とか



日本忠霊殿・善光寺史料館 -
日本忠霊殿は、戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔。
(Wikipediaより)



迷子郵便供養塔

※あれれ~

善光寺の門前町風景~



ムクドリの行列

※電線に群れて~
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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