古/いにしえの面影       其の一阡四百拾六
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年09月15日 金曜日
アップ日  2019年04月05日 金曜日
長野県長野市小島田町(川中島古戦場)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
エエ季節に誘われて~
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、
甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と
越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、
北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。
最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する
三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、
その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

赤松が目に付く境内

※八幡社扁額
四脚の鳥居

八幡原

※周遊したいでしょうね。
歴女さん

手水舎

※手水鉢

大河ドラマ
風林火山思い出しながら~

※拝殿舎

拝殿舎前の
旧本殿舎跡

※逆槐
読みは「さかさえんじゅ」。永禄4年(1561)の川中島合戦で、
山本勘助の進言によって「啄木鳥(きつつき)の戦法」をとることにした武田信玄は、
八幡原のこの場所に土塁を積み重ね、矢来(やらい)を組み、
盾をめぐらして上杉軍挟撃の本陣をおいた。
その際、土塁の土留めとして自生していた槐(えんじゅ)の木を逆さにして打ち込んだものが、
やがて芽を出し大樹になったと伝えられる。
木の周囲に残る低い土塁は、信玄本陣を示す桝形陣形跡といわれる。
((財)ながの観光コンベンションビューローHPより)


執念の石
武田・上杉両軍が三万余の死闘を展開した永禄4年(1561)の川中島合戦。
上杉軍は車懸かりの戦法をとり、武田軍本陣の信玄めがけ上杉謙信が切り込んできた。
謙信の鋭い太刀に、信玄は手にした軍配団扇で受け止めたが、腕に傷を負った。
急を見て信玄のもとに駆けつけた家臣の原大隅守虎胤※(はらおおすみのかみとらたね)は
傍らにあった信玄の槍で馬上の謙信を突いた。
しかし、槍先ははずれ、拍子で驚いた馬が立ち上がり、一目散に走り去った。
主君の危急を救いながらも、謙信を取り逃がした原大隅が、
その無念さから傍らの石を槍で突き通したと伝えられるのが、この執念の石である。
((財)ながの観光コンベンションビューローHPより)




その時の情景



首塚
この塚は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ、永禄4年9月10日の戦いの後、
武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6000人余人)の
遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、
「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、
この恩に報いたといわれている。




掲揚台



庚申塚

※道祖神

境内風景




※土塁の名残は所々に在ります。

昔の川跡?
水辺の広場
長野市立博物館

※ピクニック広場の茅葺
茅葺工程は伝承して欲しいですね。

川中島古戦場史跡公園マップ
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
ページトップへ戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.