古/いにしえの面影       其の一阡四百拾八
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2017年09月15日 金曜日
アップ日  2019年04月10日 水曜日
長野県長野市松代町松代(象山神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
エエ季節に誘われて~
象山神社(ぞうざんじんじゃ)は、長野県長野市松代町にある神社(県社)。
幕末の松代藩士で思想家の佐久間象山を祀る。
本殿等は国の登録有形文化財で、園池は登録記念物。
1913年(大正2年)の象山殉難五十年祭を機に、
地元松代町出身の大審院長・横田秀雄を中心に神社建立が計画され、
1938年(昭和13年)に創建された。
社地は旧佐久間象山邸であり、境内には象山ゆかりの建物が
松代町内や京都から移築されている。
なお、佐久間象山の名は一般的には「しょうざん」と読まれるが、
地元長野県では「ぞうざん」と呼び習わされている。
神社の名もこれに習い「ぞうざんじんじゃ」と読む。
(Wikipediaより) 

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半鐘此処に~

※松代小学校

飾り瓦に六文銭

※お帰り~

槍術所



背筋のシャンと伸びた先生?

文武学校(ぶんぶがっこう)は、江戸時代後期に創設された信濃国松代藩の藩校である。
明治時代初期に廃止されたが、藩校の建物は昭和期まで学校として使用されていた。
日本全国約250藩中の藩校でも、建設当時から建造物や藩校敷地がそのまま残っている。
第6代藩主真田幸弘のとき、江戸から菊池南陽を招いたことから、松代藩での藩士の教育が始まる。
時が下り、第8代藩主真田幸貫が清須町の喰違御用屋敷手狭につき、
学舎建設の計画を立てていたとき、佐久間象山は藩家老矢沢監物に「学制意見書及学堂規則」を提出、
幸貫はすでにあった水戸の弘道館を参考にするため、
藩の儒官林鶴梁をして藤田東湖から組織、経営方法を聞くよう命令。
幸貫は東湖からの詳細な返事を経て建設を決意し、総奉行に鎌原貫唯、奉行に菅沼正身、
長谷川昭道に任じ、喰違御用屋敷に藩士の金井美濃輔の屋敷を併せ地割、棟梁などを手配し着手するが、
幸貫は逝去、第9代藩主幸教が遺志を受け継ぎ、完成。安政2年(1855年)に開校した。
総敷地3089m2(934坪) 建坪1500m2(455坪)廃藩に伴い、明治6年以降、
初等教育の場として昭和40年代まで使われる。
1953年に国の史跡に指定され、松代小学校が隣接地に移転、その後復元工事が行われ、
長野市によって公開されている。
(Wikipediaより)


文武学校前に長屋門
旧白井家表門
白井家は石高100石の松代藩(藩庁:松代城)の中級武士で
白井初平の代で元方御金奉行や御宮奉行などを歴任し、
白井平左衛門の代に文武学校(松代藩の藩校)権教授などを務め
佐久間象山(松代三山の1人、松代藩士、兵学者、朱子学者、思想家)とも親交がありました。
現在の建物は弘化3年(1846)に建てられた長屋門(門扉の左右に長屋を設けた門形式)で
間口20m、三間一戸、寄棟、桟瓦葺き外壁は鏝仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁押え、
で背面には陪臣が住まう居住区が付設されているのが大きな特徴です。
一般的に長屋門は身分の高い家だけが許される特権的な格式のある門ですが
松代藩では天保年間(1830~1844年)以降は中級武士でも許されたようで
数多くの長屋門が建築されました。

※お洒落な造り

内部は休憩所

※向こうに旧樋口家住宅の
茅葺屋根が見えます。

旧白井家の向えに
黒塗り門

※真田勘解由家
この家は約百六十年前、花の丸の長局をこの処に移築したもので、
その前は殿町にありその時は萱葺であった。
当家は初代藩主真田信之の子二代信政と京の小野お通の子(二代お通)圓子との間に生れた信就(のぶなり)を
始祖とする通称勘解由信就は長子であったが大名家に入るを好まず末弟幸道が三代を嗣いだ。
幸道に子がなく信就の六男信弘が四代を嗣ぎ六代まで続いたが七代は井伊家より迎えた。





土蔵が目に付きます。

※気に成る町屋も~


※亀甲型の海鼠壁も~

 百日紅の花路地

馬場家長屋門
この長屋門は、御国御取次役並御聞番役などを務めた藩重役の表門である。
茅葺・寄棟造りで四段の腰ささらこ下見板張りや出格子窓・切子格子窓を用いている。
門扉には、八双金物、乳金物が使われている。
左に潜り戸がありそれに接する北長屋には格子窓を設けている。
江戸時代後期の建物である。




象山公園脇の水路

※高義亭は御安町にある江戸詰家老望月主水の下屋敷にあったものです。
安政元年(1854年)に吉田松陰の渡航事件に連座した佐久間象山は
松代へ幽閉となり主水の下屋敷に軟禁されることになりました。
高義亭は主に書斎や客間として利用されていた為、
象山の客人はこの建物に通され多くの密談が交わされました。
建物は木造2階建ての寄棟造り、桟瓦葺き、1階には客間や茶の間があり
2階には置床付き7畳半の部屋がありここで象山が客人と対応していたと言われています。
昭和53年(1978年)に現在地である象山神社境内に移し、
昭和54年(1979)に長野市指定重要文化財に指定されています。


 象山神社サン
佐久間象山先生銅像
佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)は、
江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。
松代三山の一人。通称は修理(しゅり)、諱は国忠(くにただ)、
のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。
位階は贈正四位。象山神社の祭神。
象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。
(Wikipediaより)


※正面から~



横田 秀雄(よこた ひでお、文久2年8月19日(1862年9月12日) - 1938年(昭和13年)11月16日)は、
日本の裁判官(大審院長)。法学博士。明治大学総長。帝国学士院会員。雅号は鵠山。
第4代最高裁判所長官横田正俊は長男。元鉄道大臣小松謙次郎は実弟。
信濃国埴科郡松代城下代官町(後の長野市松代町)に、
松代藩士の父・横田数馬、母・亀代子の長男として生まれる。
長じて1877年長野県師範学校に入学し、同年第十八番変則中學校の英学専門生となるが、
翌年中退。上京して1880年司法省法学校に入学。
1888年(明治21年)帝国大学法科(のち東京大学法学部)を卒業。判事になる。
1899年(明治32年)慶應義塾大学法学部政治科教授(物権担当)。
1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)まで大審院長を務めた。
1924年(大正13年)11月から翌年2月まで明治大学学長、5月復職、
1932年(昭和7年)3月同大学総長、1934年(昭和9年)3月辞任。
1938年(昭和13年)11月16日死去。享年77。青山墓地に眠る。
(Wikipediaより)
 
横田秀雄顕彰碑

佐久間象山筆桜の賦
佐久間象山が万延元年(1860)松代聚遠楼蟄居(ちっきょ)時代の50歳の時に、
自作の賦(ふ)を縦176㎝、横97㎝の唐紙に書いたもので、軸全体は縦249㎝、横134㎝の大幅である。
賦の大意は「桜花が日本の名花である如(ごと)く、私も日本に比類のない卓見を懐いている。
開国して外国の学術と技芸を取り入れることが唯一の国防の策であるが、
攘夷論が天下を動かしているのは憂慮に堪えない。
今ここに於(お)いて頼み奉るのは皇室である。
私の意を採用して、開国の国是を確立していただきたい」というものである。
(長野市文化財データベースHPより)


手水舎

※透かし彫りが綺麗に

絵馬堂には~

※観世流能
観世流(かんぜ-りゅう)は能楽における能の流派の一。
シテ方、小鼓方、大鼓方、太鼓方がある。
(Wikipediaより)


柳能楽

※琴の合奏写真

菊華だけが残った絵馬

※狛犬


狛犬




望岳賦
天保12年(1841)夏、象山先生31歳の時の作といわれ、桜賦と並び称される名作である。
富士山の気高く優美な姿を讃えて、自分の理想と抱負をこれに寄せた韻文である。
この碑は明治23年、象山先生と義兄弟の誼を結んだ村上政信が、
先生直筆の書を碑文に彫りその邸内に建てたものであるが、その後行方不明となり、
久しく幻の碑と称されてきたが、東京杉並高円寺の修道院内にあることが判明し、
昭和48年11月9日神社創立35周年祭の当日奉迎再建した。


※木製燈籠

拝殿舎屋根に

※桜花紋

山寺常山邸
山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。
江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、鎌原桐山(かんばらとうざん)、
佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。
常山は号で幼名を久道(ひさみち)、のちに信龍(しんりゅう)と名のり、
通称を源太夫(げんだいゆう)といいました。
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎(さとういっさい)や
中村敬宇(なかむらけいう)らと親交を深めました。
八代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、
藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐しました。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、
晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。
現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、
この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院
(対竹廬[たいちくろ])が残されています。
ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。

※表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。
また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、
時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。
なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。




やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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