古/いにしえの面影       其の一阡四百拾九
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年09月15日 金曜日
アップ日  2019年04月10日 水曜日
長野県長野市松代町西条(松代象山地下壕)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
エエ季節に誘われて~
松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期、
日本の政府中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの
山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。
このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一般公開されている。
太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、
陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。
そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。
1944年7月のサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。
同年同月東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた
長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

竹山随護稲荷神社サン



本殿舎が今の位置に移されたのは
明治期だとか…

※付近のトタン被せ家屋

黄檗宗 象山 恵明禅寺

※鯱が大屋根に乗っています。

 地下壕入口
ヘルメット着用



初期の計画では、象山地下壕に政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。
皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。
しかし、皆神山の地盤は脆く、舞鶴山地下壕に皇居と大本営を移転する計画に変更される。
舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。
また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。
象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局、
舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)として
予定されていた建物が造られ現在も残っている。
(Wikipediaより)


※形状はイラストにて~

発破と削岩機で掘られたとか~



削岩機の跡も~

※枝道は崩れた?
未完成??

先へ~



前に訪れた坑道に比べたら
幅員が広い



測点跡






トロッコ枕木跡



終戦間近に工事が
行われたんですね。



今の地下街に比べたら~




土地の買収は役場を通じて軍が行った。
当時は養蚕が重要産業であったので桑畑は程度により買収金額が三段階に分かれていた。
買い上げた土地のうち戦後に不要になったものは買い上げ価格の半値程度で払い下げられた
(疎開補償費を元住民が半額返金した)。
当該地区一帯500戸足らずのうち130戸が立ち退き対象となり、
疎開は東部軍の指示により1945年4月から行われた。
田畑の耕作は許可されていたため多くは付近の親戚や知人宅を頼った。
大規模な移動が起こっていないように偽装するため、家、庭木、庭石などはそのまま、
畳の持ち出しは3枚までに制限されていた。
終戦後は漸次9月9日までに自宅に戻り、修理されていた家もあった。
(Wikipediaより)




1944年11月11日11時11分、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。
11が並ぶ時間が選ばれたのは、漢字の十一を縦書きにすると「士」に通じることが理由とされる。
ダイナマイトで発破して、崩した石屑をトロッコなどを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。
建設作業にあたっては徴用された日本人労働者および日本国内および
朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者が中心となった。
工事は西松組や鹿島組が請け負った。
満州国からの第4639部隊や、賢所工事には鉄道省静岡隧道学校の若者も当たり、
付近の住民は勤労奉仕隊としてズリなどの運搬に、
また当時の旧制屋代中学、旧制松代商業らの生徒も陸軍工兵隊の指揮の下、
運搬などに学徒動員され、国民学校初等科の生徒も運搬や山から採ってきた枝でズリを隠す作業等を行った。
勤労奉仕隊は無料だったが、朝鮮人労務者は賃金をもらっていた。
総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が当初8時間三交代、のち12時間二交替で工事に当たった。
最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。
延べ人数では西松組・鹿島組・県土木部・工事関係12万人、勤労奉仕隊7万9600人、
西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人、総工費は6000万円。
当時の金額で2億円の工事費が投入されたとも伝わっている。
しかし、1945年8月15日のポツダム宣言受諾発表により、進捗度75%の段階で工事は中止された。
(Wikipediaより)




舞鶴山(559.7m)
1947年 - 舞鶴山のコンクリート庁舎に中央気象台の松代分室
(現・気象庁松代地震観測所)が設けられ、
舞鶴山地下壕には、各種地震計が設置された。
現在では日本最大規模の地震観測所となっている。
1990年 - 長野市により象山地下壕の一部(約500m)が一般に内部公開される。
なお象山地下壕1番壕には信州大学の宇宙線観測施設が設けられている。




神田川

渡れば白壁も~

カラー漆喰も
大黒様



街中へ~



竹山町公民館

※象山地下壕の出口が
この辺りに在るのでは?
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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