古/いにしえの面影       其の一阡四百弐拾
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2017年09月15日 金曜日
アップ日  2019年04月17日 水曜日
長野県長野市松代町松代(街中)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
エエ季節に誘われて~
松代町(まつしろまち)は、かつて長野県埴科郡に存在した町。
江戸時代には松代藩の城下町であり、恩田木工や佐久間象山を輩出した。
明治期には製糸業が盛んだった。さらに、太平洋戦争末期には
国家中枢機能の移転を目的として松代大本営の地下坑道が造られた。
16世紀 - 松代城の城下町松代として16世紀末に建設され、
江戸時代には真田氏が治める松代藩で、長野盆地の中心的都市だった。
1871年(明治4年) - 近世以来の松代町のうち、馬場町が西条村、十人町が東条村にそれぞれ合併。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、松代町が単独で自治体を形成。
1951年(昭和26年)4月3日 - 清野村・東条村と合併し、改めて松代町が発足。
1951年(昭和26年)10月1日 - 更級郡篠ノ井町の一部(東福寺のうち道島・筏道下区)を編入。
1955年(昭和30年)4月1日 - 豊栄村・寺尾村・更級郡西寺尾村と合併し、改めて松代町が発足。
1955年(昭和30年)9月30日 - 西条村を編入。
1957年(昭和32年)8月1日 - 杵淵および西寺尾のうち川西地区が更級郡篠ノ井町に編入。
1966年(昭和41年)10月16日 - 長野市・篠ノ井市・更級郡川中島町・信更村・更北村・上水内郡七二会村
               ・上高井郡若穂町と合併し、改めて長野市が発足。同日松代町廃止。
(Wikipediaより)

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トタン被せ家屋

※象山記念館

象山神社参道

※屋門がアチコチニ~

キョロキョロしながら~



庚申塚

旧横田家住宅
旧松代藩士横田家は、禄高150石の中級武士で郡奉行などを努めた家である。
最後の甚五左衛門は表御用人であった。
この住宅は他の藩士宅と同様、一種の公舎で、横田家が現在地に移った時期は十八世紀末である。
主屋は、寛政六年(一七九四年)表門は天保十三年(一八四二年)に建てられた。
隠居屋は、文政三年(一八二〇年)頃移築されたものと推定される。
屋敷地は、間口約四十メートル(二十二間合)面積三三四〇、八二平方メートル 
(約千十二坪)道に面して表門、奥に主屋、主屋の東隣りの隠居屋、主屋南西に土蔵が建つ。
この屋敷構えは江戸時代末期の様相を伝え、
当時の位置に屋敷地及び建物がほぼ完全に保存されている点で貴重である。
なお 横田家から出た秀雄は大審院長に、その子正俊は最高裁長官になり、
二代続いて裁判官の最高の地位についた。
そのほか、秀雄の弟謙治郎(小松)は鉄道大臣となり、姉の和田英は「富岡日記」の著者として有名で、
多くの秀才を生んだ家である。
(信州松代観光情報HPより)


※ランドマーク的茅葺屋根

母屋

※寛政期に建てられたとか~

L字型の茅葺屋根

※取り合い部分は瓦で作られています。

何度見てもウットリします。

※隠居屋
文政期の建物

飾り瓦
三つ巴紋



和田 英(わだ えい、安政4年8月21日(1857年10月8日) - 昭和4年(1929年)9月26日)は、
官営富岡製糸場の伝習工女。『富岡日記』を著した。旧姓は横田。
1857年 信濃国埴科郡松代(現・長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次女として生まれる。
1873年 松代町から英を含む16人が富岡製糸場へ伝習工女として入場する。
1874年 富岡製糸場を退場し、長野県埴科郡西條村(現・長野市松代町西条)に建設された
日本初の民営機械製糸場・六工社の創業に参画するとともに、その後も教授として指導的な役割を果たす。
1878年 和田盛治と結婚。
1905年 富岡製糸場での日々を回顧して『富岡日記』を著す。
墓所は、長野市松代町の蓮乗寺。
(Wikipediaより)


※一本一得!
半鐘は無い
前に

六文銭合資会社跡地
明治16年(1883)、座繰り製糸の共同揚げ返しの「松代製糸会社」創立。
21年、六文銭を商標に用い、50釜の蒸気製糸を開始。
31年、六文銭合資会社と改称し、明治末には530釜の大工場に発展、四谷に倉庫部乾燥所完成。
娯楽室、図書館、医務室病室があり、オルガンもあった。
昭和恐慌後の昭和7年に閉鎖された。
同所には原製糸場が進出、昭和36年まで操業している。  
*本社工場面積2199坪(建坪1211坪)、四谷乾燥所は2367坪(建坪175坪)だったという。
(信州松代シルクロードアーカイブHPより)




 松代文化ホール前

※小さな神社が~

金刀比羅社

※境内風景

本殿舎

※前に建つ庚申塚

燈籠?
前には

※内部に神棚が~

これまたトタン被せ



木町
城下建設当時、山から木を切り出し
関屋川に流木し陸揚げした地


中央橋(思案橋)
この橋の袂で年季明けの丁稚や女工が
郷里に帰るか此の地に残るか思案したとか~



 
嘉永2年(1849年)、松代藩藩士・佐久間象山が当地で電信を成功させたことを記念し、
「日本電信発祥之地」の碑が建立された。
(Wikipediaより)




松代藩鐘楼(まつしろはんしょうろう)は、長野県長野市松代町にある鐘楼。
この鐘楼は江戸時代初め、信濃国松代藩が松代城下、片羽町に建設したものである。
城下町の人々に時を告げるべく、1刻(2時間)に1回鳴らした。
また出火の際も鐘を鳴らして非常を知らせた。
現在、鐘楼は長野市で管理しているが、外部見学のみで内部見学は出来ない。
1624年(寛永元年) - 松代片羽町に火の見櫓と足軽割番所とともに建てられる。
1717年(享保2年) - 関口火事により焼失、鐘も焼け落ちる。鐘楼が再建される
1734年(享保19年) - 城下清野村離山にて、鐘が鋳造される
1788年(天明8年) - 河内屋火事により焼失、鐘は無事、鐘楼が再建される
1800年(寛政12年) - 市場火事により焼失 鐘も焼け落ちる 
1801年(享和元年) - 再建される 鐘は表柴町の大英寺の鐘を借りて突いていた 
1806年(文化3年) - 松代東条で鐘が鋳造される
戦時中 - 対空監視硝として使われる。鐘が金属回収に遭う。
1967年(昭和42年) - 長野市指定文化財となる。
(Wikipediaより)



 前には~
01 02

※一番オリジナルに近いかも?

松代活動館の跡
松代町殿町に大正時代~昭和40年代
開設当時は、一階に桝席、二階に椅子席(定員800人)が
馬蹄形に設けられていた。
洋画・邦画の無声映画を上映し、町民に娯楽を提供、文化活動の場ともなった。
松代出身の童謡作曲家 海沼実は、ここで明治大学マンドリンクラブの演奏を聴き
状況を決意したという。
また、後に松代小学校の同級生が設立した児童養護施設、
松代福祉寮建築資金捻出の為講演会も開催している。
(看板より)


※見たかったなぁ~

殿町公民館にも六文銭が~
前には
(雪村ですがね)



矢沢家の表門
矢沢家は松代藩において、代々無役(むやく)席(筆頭家老格)を務め、
江戸中期以後は石高1400石、預同心40人の藩中最高の家格であった。
寛政4年(1792)に再建されたこの長屋門は、
間口13.19メートル、奥行3.72メートル、高さ6.83メートルで、屋根は入母屋造の瓦葺である。
門の両側に武者窓を備えた同心部屋を配し、右の同心部屋の陣には
「供待(ともまち)」という腰掛をそなえた開放の空間を備えている。
鬼瓦や破風(はふ)に配された六連銭(むつれんせん)や、白漆喰(しっくい)の壁など
城門を思わせる格式を持っている。
平成17年(2005)の火災により類焼被害を受けたが、約2年間の修理工事を経て甦った。
(長野市教育委員会看板より)


※でかい!
馬乗門でしょうか?

出格子

※六文銭紋

破風付建物ですが
交番です~

※木材工場




長野電鉄屋代線
屋代線(やしろせん)は、長野県千曲市の屋代駅から長野県須坂市の須坂駅までを結んでいた
長野電鉄の鉄道路線である。
松代など千曲川東岸の町々を結ぶ屋代線は、河東鉄道により1922年(大正11年)に屋代 - 須坂間が開業。
1925年(大正14年)に木島まで延伸された。当初は蒸気機関車による運行であったが、
1926年(大正15年)には屋代 - 須坂 - 木島間が電化される。
信州中野 - 木島間の通称木島線が廃止された2002年(平成14年)に、
運行形態に合わせて屋代 - 須坂間を屋代線とした。
以前は正式には河東線の一部であり、屋代線は通称であったが、2002年(平成14年)9月18日から
運行形態に合わせて屋代線を正式な路線名称とした。
利用客の減少により、このまま営業を続けることは難しいとして、県と沿線3市に資金援助を要請するなど、
厳しい状況にあった。そこで2009年(平成21年)に地元自治体や長電により「長野電鉄活性化協議会」が設立され、
翌2010年(平成22年)から「地域公共交通の活性化及び再生に関する法律」による
「長野電鉄屋代線総合連携計画」を発表し、サイクルトレインやパークアンドライド用駐車場整備といった社会実験を行った。
しかしながら、2011年(平成23年)2月2日に催された活性化協議会の議決で路線廃止と代替バスの設置が決定し、
同年3月25日に国に廃止届を提出。2012年(平成24年)4月1日廃止された。
(Wikipediaより)




鉄道敷きの線路は撤去されて~



マップには鉄道が残されてます。

※悲しいなぁ~




大正モダニズム
戦時中は不要不急線として休止される予定だったが、
松代大本営建設のために休止は返上され、貨物輸送に利用された。
留置線はその際に敷設されたもの。
(Wikipediaより)


※歴史が~

私的には
配線の碍子が気に成ります。

※ベル釦も~

「汽車ポッポ」(きしゃポッポ)とは富原薫作詞、草川信作曲の日本の童謡である。
2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。
1937年(昭和12年)にレコード用の童謡『兵隊さんの汽車』として世に出た。
歌詞も現在のものと一部異なり、蒸気機関車(汽車)に乗って出征する兵士を見送る内容であった。
作詞者の富原は静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)で教員として働いており、
旧陸軍の演習場があった御殿場線の御殿場駅で見た光景を歌詞にしたという。
後に川田正子の歌唱によるレコードが発売され、1945年(昭和20年)の大晦日にNHKラジオの
『紅白音楽試合』(『NHK紅白歌合戦』の前身)で川田によりこの曲が歌われることになった。
その際に近藤積ディレクターから終戦後の時代にあった内容への改作を依頼され、
富原自身の手によって現在の題名と歌詞に改められた。
正しい歌詞は「畑も とぶ とぶ」であるが、レコードでは川田正子が間違えて
「田んぼも とぶ とぶ」と歌ってしまった。
しかし当時はレコードの原盤が非常に高価だったため再録音せずにそのまま発売した、
と川田の甥に当たる三代目海沼実がラジオで話している。
のちに、うたの科学館シリーズ のりものの歌に収録され、水谷玲子が歌唱した。
さらに昔の列車・今の列車に赤坂東児によるアレンジを施し、岡崎裕美が歌唱したバージョンが収録された。
汽車ポッポの歌詞を掲載した歌碑が、草川の出身地である長野県長野市松代町の旧松代駅前に設置されている。
(Wikipediaより)


※駅の名残~

※駅前の名残

小山田家住宅(長野市松代町)概要: 
小山田家の祖先は武田信玄の武将として活躍した小山田家住宅(長野市松代町)小山田備中守で
真田昌幸の長女を正室に迎えるなど真田家と関係が深い家柄です。
小山田茂誠は天正18年(1590)に昌幸から信濃小県郡村松郷(現在の長野県青木村)を
与えられ地位が確立し、その後は真田信之に従い大坂の陣などでも従軍し活躍しています。
元和8年(1622)に信之が上田藩(藩庁:上田城)から松代藩(藩庁:松代城)に
移封になると随行し松代藩の次席家老などに就任、代々小山田家はそれらの役職を歴任しました。
主屋は嘉永2年(1849)に建てられたもので木造2階建て、寄棟、銅板葺、
建築面積98㎡の数奇屋造りで、格式が高く意匠にも優れ当時の上級武家屋敷の名残が見られます。
門(冠木門)の西側に配置された番所は江戸時代中期の1751年~1829年頃に建てられたもので
木造平屋建て、切妻、桟瓦葺、建築面積11㎡、道路に面する壁には木格子窓を設けて
外の様子が分かるようになっていて、通路側の外壁には簓子下見板張や懸魚を施し格式の高さを強調しています
(逆に他の面の外壁は真壁造の竪板張で簡素な意匠になっています)。
小山田家住宅の主屋と番所は江戸時代に建てられた上級武家屋敷の遺構として貴重で
「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から
平成18年(2006)に国登録有形文化財に登録されています。
又、平成11年(1999)には第12回長野市景観賞にも受賞しています。


此処にも
前に

※戸隠の峰も~

神田川水門にも六文銭


やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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