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ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや! (by UFO先生)
エエ季節に誘われて~
戸隠神社(とがくしじんじゃ)は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺に、五社を配する神社である。 室町時代には戸隠神社で天台・真言両宗の法論闘争が発生、
応仁2年(1468年)天台派の宣澄法師が真言派に暗殺された。
後世に至って宣澄の供養のため、宝永5年(1708年)に宣澄社が建立され、
村人によって毎年8月16日の中社の例祭に「宣澄踊り」が奉納されるようになった。
このため、衆徒らが約30年間にわたり水内郡小川の筏が峰(現在の長野県上水内郡小川村)に
大日方氏の庇護を受けて移り住むなど苦境の時期であった。
川中島の戦い当時は、多くの修験者と信仰者集団を抱えていた戸隠神社や飯綱神社は
武田、上杉両軍の双方にとってぜひ味方につけたい存在であり、
修験者は広く各地の情報に通じ多くの人々を牽引し戦況を占い、
何より薬草の知識は従軍医師としての期待が大きかった。
このため善光寺や、戸隠、飯綱を味方にするか敵に回すかは極めて重要であったため、
これらをめぐって戦火に巻き込まれ熾烈な戦闘が繰り返されている。
江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立。
同時に東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まり、
山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していった。
明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、
その結果廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、
宗僧は還俗して神官となった。
なお当時戸隠の寺院に奉られていた仏像などは、戸隠近隣の村の寺院などに現在も伝わり祀られている。
(Wikipediaより)
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