古/いにしえの面影       其の一阡四百四拾
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年10月29日 日曜日
アップ日  2019年05月16日 木曜日
大分県宇佐市南宇佐(宇佐神宮周辺)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

台風22号:アジア名サオラー(Saola)と命名された。
25日夜にはフィリピン大気地球物理天文局(PAGASA)によって
フィリピン名ケーダン(Quedan)と命名された。
その後は発達しながら北上、西日本・東日本の太平洋側、奄美地方、沖縄県に大荒れの天気をもたらし、
30日0時に三陸沖(北緯38度、東経144度)で温帯低気圧となった。
30日正午には千島近海で944hPaに達し爆弾低気圧となった。
台風の中心が陸地から離れていたことから、本州・四国では21号のような豪雨にはならなかったが、
宮崎県では記録的な大雨となった。
また、湖西線・阪和線は、30日の午前中まで運休した。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

呉橋から真っ直ぐに伸びる勅使街道~



モルタル芸術
なんちゃってビル
木枠の窓が懐かしい~
元散髪屋さん?

鬼瓦付妻入り家屋

※電話番号10番

勅使街道は続くよ~

※脇見しながら~

獅子飾り

※何か用事?

半鐘付
一本一得!

※吉?栄一郎先生之碑
どなた?

北へ向かうタイル舗装道

※鬼瓦~




鯱載ってる家屋
元旅館?

※宇佐神宮前
仲見世

薫風や国を護りの神として
歌碑
高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1979年10月26日)は、俳人。
高浜虚子の実子。東京市神田区猿楽町に虚子・いと夫妻の長男として生まれる。
「年尾」の名は正岡子規の命名による。




三浦義一歌碑
三浦 義一(みうら ぎいち、明治31年(1898年)2月27日 - 昭和46年(1971年)4月10日)は、
日本の右翼。フィクサー。日本銀行総裁・一万田尚登の親戚筋の立場を利用して、
戦時中に日本金銀運営会に入り込み、その組織と利権を掌握した。
父の三浦数平(大分県士族[2])は大分市長、衆議院議員を務めた。
(Wikipediaより)


※ 歌碑に題す

 南尚翁顕彰碑
重光葵 書
南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年) - 1919年(大正8年))は、
日本の建設事業者、建設指導者、実業家である。晩年に南 尚(みなみ ひさし)と改名した。
豊前国宇佐郡金屋(現・大分県宇佐市)出身。
幕末から明治にかけて、大分県の広瀬井路、高森水路を開発。
その後明治政府の水利開墾事業に従事し、全国の水利土木工事にあたった。
とくに日本三大疏水とされる安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(滋賀県 ‐ 京都府)、
那須疏水(栃木県)の開発や月居トンネル工事(茨城県)に取り組んでいる。
疏水工事のなかで、特にトンネル工事で経験を積み、この経験を生かして、
後にトンネル工事を専門とする「現業社」を創設した。
一族には陸軍大将や朝鮮総督を歴任した南次郎がいる。
(Wikipediaより)


富田久兵衛と矢野興兵衛
※広瀬井路は、宝暦元年(1751)宇佐神宮庁が社
費により麻生善右衛門が所掌して開削工事を実
施したに始まる。しかし、掛樋やトンネルの崩壊な
ど難工事のため到底人力の及ぶところではないと
断念した。さらに、文化11年(1814)から文政4年
(1821)の8年間に渡り富田久兵衛と矢野興兵衛
が協力して起業を企てたが、資金難により不可能
となった。(水土里ネット宇佐pdfより)


どちらも広瀬井路関係者

宮本武蔵
誠心直道の碑


寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。
7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、
鷹狩り[注釈 16]が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。
同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。
翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように
毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。
『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、
藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。
この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
(Wikipediaより)


保存
01 02 03 04



10形は、かつて日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院に在籍した、B形タンク式蒸気機関車である。
もとは、九州鉄道が開業に際してドイツのクラウス社(Lokomotivfabrik Krauss & Comp.)から
輸入したものであるが、大きさが手頃で高性能であったことから、同形機が川越鉄道や甲武鉄道、
両毛鉄道にも導入されている。
九州鉄道では当初形式名を制定していなかったが、機関車数が増えて管理が難しくなったためか、
1900年頃に共通設計車をグループごとに分けて形式名を付しており、
本形式は初号機の番号から4形とされた。
九州鉄道は、開業に当たって技術指導にドイツの技術者ヘルマン・ルムシュッテルを招いたことから、
機関車はドイツから輸入することとした。
この際に輸入されたのが、ホーエンツォレルン社製の1 - 3(後の鉄道院45形)及び
本形式4 - 10であった。これらは車軸配置0-4-0(B)形の単式2気筒、飽和式タンク機関車で、
いずれもドルトムント・ウニオンに発注され、九州鉄道が示した仕様書に基づき、
製造を分担する両社が納入している。
(Wikipediaより)




本形式はクラウス社の設計管理番号である「系列番号」では「LX」と称するグループに属している。
クラウス社製の機関車は、アメリカ製の粗野な無鉄砲さや、イギリス製の過度な気取りを排した、
いかにもドイツ的な合理性と堅実さをもったデザインで、さらに堅牢かつ高性能であったことから、
導入各社で長期にわたり愛用されたばかりでなく、
甲武鉄道など一部の導入先では、既存イギリス製機関車の仕様を同社に提示し、
その同等品を発注する例も見られた。
(Wikipediaより)


※動態保存でしょうか?

宇佐八幡神輿碑
東大寺御神幸記念碑

種田山頭火歌碑

種田 山頭火(たねだ さんとうか、
1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、
日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。
山口県生まれ。「層雲」の荻原井泉水門下。
1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。
本名・種田正一(たねだ しょういち)。
山頭火は晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、
それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記している。
その時にはすでに無一文の乞食であったが、
乞食に落ちぶれた後、克明な日記をつけ続けている。
その放浪日記は1930年(昭和5年)以降が存在し、それ以前の分は自ら焼却している。
死後、遺稿日記が公開され、生涯の一部が明らかになった。
(Wikipediaより)







松から朝日が赤い大鳥居
春霜にあとつけて詣でる
山頭火



神武天皇聖蹟菟狹顕彰碑
前には~

01 02 03



鷹居八幡神社参道鳥居
寄りたかったなぁ~


やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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