古/いにしえの面影       其の一阡四百五拾
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2017年10月29日 日曜日
アップ日  2019年05月17日 金曜日
大分県宇佐市院内(石橋の里・石拱橋群)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

台風22号:アジア名サオラー(Saola)と命名された。
25日夜にはフィリピン大気地球物理天文局(PAGASA)によって
フィリピン名ケーダン(Quedan)と命名された。
その後は発達しながら北上、西日本・東日本の太平洋側、奄美地方、沖縄県に大荒れの天気をもたらし、
30日0時に三陸沖(北緯38度、東経144度)で温帯低気圧となった。
30日正午には千島近海で944hPaに達し爆弾低気圧となった。
台風の中心が陸地から離れていたことから、本州・四国では21号のような豪雨にはならなかったが、
宮崎県では記録的な大雨となった。
また、湖西線・阪和線は、30日の午前中まで運休した。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

R387沿いに恵良川が流れています。
駅館川(やっかんがわ)は、大分県宇佐市を流れ、
周防灘に注ぐ二級水系駅館川水系の本流である。
由布岳や日出生台などに水源を発する支流を集めた津房川及び恵良川が、
宇佐市院内町小坂の宇佐別府道路院内インターチェンジ付近で合流して駅館川となり、
宇佐市を南から北に縦貫して周防灘に注ぐ。
河口付近には沖積平野である宇佐平野を形成する。
駅館川水系は眼鏡橋が多いことで知られており、また、
支流には東椎屋の滝、西椎屋の滝等の名瀑がある。
天保12年(1841年)に完成した『太宰管内志』には、
「宇佐の駅宿址は宇佐川の傍らにあり故に駅館川といふなり」と記されており、
古代の駅家が近くにあったことが駅館川の名の由来であるとしている。
また、鎌倉時代以前には、宇沙川、菟狭川とも称した。
(Wikipediaより)


※岩山なんですね。

国道橋が石橋では無いですが~
自動車なら知らぬ間に通り過ぎるかも~
此処は新橋ですが~

※隣りに旧橋が有ります。

葦が薙ぎ倒されるほどの水量でも
橋脚の太さは十分なんでしょうか?

前には

掲示板には~

※自動車が大型化したら
しんどいですね。
歩道として残して欲しいですわ~

大正期の親柱銘

※鳥居橋

煉瓦の様に
綺麗に石の大きさが揃っています。



大蔵山烽火台跡碑

※看板も有りますが、
何で此処に?
山の上ですよね~

安倍守衛翁之碑
ググっても判らないので
文字を書かれた方は~

※箕浦 勝人(みのうら かつんど、
嘉永7年2月15日(1854年3月13日) - 昭和4年(1929年)8月30日)は、
日本の新聞記者、実業家、政治家。旧姓は実相寺。
豊後国臼杵生まれ。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。郵便報知新聞社に入社し、
新聞記者の後、社長となる。立憲改進党に参加。
明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で当選。
大正4年(1915年)から大正5年(1916年)まで第2次大隈内閣の逓信大臣を務める。
(Wikipediaより)


他の石橋も探して~
院内地区には74基の石橋が有るそうで~

※知らずに渡りそう~

脇から見たら
綺麗な石橋

※付近にはトタン被せ家屋も~

反対側から~

※恵良川

櫛野橋
仮設年度大正12年

※付近の柑橘畑
カボスでしょうか?

自転車及び
農耕車(2t以下)のみ通行可
高並橋、鉄橋ですね。

※集落内道路

製材所も~



此処も石製欄干が無ければ判らない~


御沓(みくつ)橋《県指定有形文化財》
橋の長さが59mと、町内最長を誇る3連アーチ橋。
大正14年に架設されたこの橋は、町を南北に流れ激しく侵食した恵良川に
しっかりと立つ様は頼もしさを感じされ、当時のモダンなセンスが活かされています。
川面に映しだされた姿も幻想的です。
【夜間ライトアップ有り】
(宇佐市観光協会HPより)


御沓橋架設記念碑
墓石かと思いました~

近くのビュースポットから~

※絵に成ります。

御沓橋から
恵良川を望む~

※対岸から~

付近の地蔵尊

豊州線(ほうしゅうせん)は、かつて大分県宇佐郡高家村の
日本国有鉄道(国鉄)日豊本線豊前善光寺駅から同郡四日市町の
豊前四日市駅を経て同郡東院内村の豊前二日市駅までの間
(走行区間はすべて現・宇佐市)を結んでいた、大分交通の鉄道路線である。
当初は国鉄四日市駅(豊前善光寺駅)を起点とし高家、八幡、四日市町、豊川、両川を経て
安心院村までの軽便鉄道を敷設し将来は日出生台陸軍演習場に延長することを
地元有志が立案したことがはじまりであった。
当初から経営は苦しく、少ない客貨の輸送量の上に
自動車の攻勢と久大本線の開通で収入は減少、
さらに自然災害にも苦しめられた。元々、玖珠郡玖珠町まで路線を延ばす予定であったが、
経済的理由から放棄された。
累積赤字を抱えバス代行にした矢先のルース台風の被害により廃止を迎えた。
(Wikipediaより)


トタン被せ家屋
此処にも~




道の駅いんない
鉄橋風の石橋の里院内看板

※道の駅内に
オオサンショウウオが展示されてます。
恵良川に生息するんでしょうね。

石橋建設時の写真が展示されて~
人海戦術ですね。

※松田新之助は、松田元平の長男として、
院内町景平で慶応3年(1867)10月11日に生まれた。
元平は、土木工事業に開眼し、関西・関東で土木事業に身を投じ熟成を期した。
明治30年(1897)に帰村した新之助は父の事業を継いだ。
若い棟梁、新之助は水系と地形にマッチした石造アーチ橋に挑んだ。
東大出身のMという若い技師の設計で石積をしたが
途中で切石不足を生じたという話が残されている。
大正14年(1925)架設の富士見橋は、工事の半ば昼食中に大響と共に崩落した。
このため、田畑山の私財を投じ再び架橋した事例がある。
これを最後に石橋架設請負を断念することを宣言したが強い要望もあり、
昭和2年(1927)水雲橋、昭和7年(1932)長六橋、
昭和8年(1933)中山橋【安心院町中山】
昭和9年(1934)丸田橋【安心院町丸田】を架設している。
古代ローマの「ロマンアーチ」を思わせる石橋王は三男二女を養育し、
昭和22年(1947)4月23日81歳の生涯を終えた。
(宇佐市HPより)




やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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