古/いにしえの面影       其の一阡四百五拾六
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2018年01月05日 金曜日
アップ日  2019年05月28日 火曜日
兵庫県西宮市名塩(名塩紙漉きの里)Ⅰ
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

名塩和紙は地元から産する各種の色相を持つ、
凝灰石の微粒子(ベッドナイト)を混入して作られます。
泥土を混ぜて漉く事により、虫害・変色に強い、燃えにくいなどの特徴があり、
古くから神社・仏閣・城館の襖紙として使用されてきました。
名塩和紙は泥土と原料の雁皮を混ぜて漉くことで、長期保存に強く、
燃えにくいなどの特徴があり、古くから神社・仏閣・城館の襖紙として使用されてきました。
現在は文化財の保存修復や金箔工芸に使われています。
名塩は、西宮市北部の山の中にあり米がつくりにくく農業だけでは成り立ちませんでした。
しかし紙の原料となる雁皮が山に自生しており、そのことを利用して製紙が始まりました。
慶長時代に、名塩生まれの「東山弥右衛門」が越前で製紙法を修行し、
越前の製法に泥土を混ぜる新製法を確立し、
世界に例のない名塩紙を生み出したと言われています。
名塩和紙は地元で採取される凝灰石の微粒子(ベッドナイト)を含む泥土を、
原料となる雁皮に混入して作られます。
凝灰石には黒、黄、白、青などの色がありますが、
黒の凝灰石は徐々に採れなくなってきているようです。
混入する鉱物の違いで、紙の色みが変わります。
名塩和紙は泥を含み、更に漉き桁にひもを張らないので重いため、
座った姿勢のままで漉きます。
一般の和紙は簀を動かす流し漉きですが、
名塩和紙は簀をあまり動かさない「溜漉き」という漉き方で製造します。
(日本文化いろは事典HPより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

西宮市立 名塩和紙学習館



資料館にて
付近絵図
三田道場生瀬小浜
姫路・加古川・三木尼崎大坂
なんて地名が見えます。

※街道と武庫川の関係~


※刷毛

六甲山系の泥を
混ぜ込むんですって~



ちりさし包丁

※はしきり包丁

江戸時代には藩札も漉かれ、
西の造幣局として最も繁栄した時代とか
明石藩尼崎藩・伯太藩・狭山藩
三田藩高槻藩淀藩小浜藩

なんて見えますね。



名塩川
水上勉著



間似合紙

※二条城の襖絵にも
使われているとか~

金箔打紙
にも使われていると~
舞妓はんの脂取り紙ですね~



街中に~R176
南の山側にBPが出来てます。

※名塩川

名塩橋から~洋館も



これより右へ二丁
蓮如上人御奮跡碑



石垣の街並み



結構傾斜がきついです
自転車はシンドイデショウネ…

※立派な石垣

山門

※お邪魔して~

教蓮寺さん

※ゴヨウ松

保護樹木

※太鼓が吊られている~

境内風景
特徴的な南山(439.3m)



半鐘



大屋根は~
綺麗な彫刻が~



空中散歩の様に~

※あの木は?

教蓮寺さんから
さらに上に~

※アソコに~

此処も城郭のような石垣が…

※保存樹
榎ですね。



※向こうは黒松?

結構登っています。

※教行寺さん
西宮市塩瀬町名塩にある寺院。浄土真宗本願寺派。名塩御坊ともいう。
1475年(文明7)、名塩の村民が蓮如を招いて寺庵を建立したのにはじまる。
蓮如は、この寺庵を摂津富田の教行寺にいた子蓮芸に兼帯させ、当寺も教行寺と名づけた。
蓮芸の没後、その次男賢勝が跡をつぎ富田教行寺から独立して、寺号も広教寺と改めた。
賢勝の孫准超は、豊臣秀吉の養女を妻とし、彼女が没すると、
後妻に毛利輝元の孫娘を迎えるなど寺運の興隆をはかり、
1617年(元和3)寺基を現在地に拡張移建した。
1634年(寛永11)、寺号も教行寺の旧号に復した。
(Web版尼崎地域史事典『apedia』より)


本堂

※鐘楼閣

大きな杉が在ったんでしょうね。

※歌碑も~

冬山の
僧と越後の
話せし
高野 素十(たかの すじゅう、1893年3月3日 - 1976年10月4日)は、
茨城県出身の俳人、医師(医学博士)。高浜虚子に師事。
虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、
山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。
「芹」主宰。本名は高野与巳(よしみ)。
(Wikipediaより)


※木の葉降る
蓮如ゆかりの
山寺に
ひろし


※保存樹クロマツ

山門と鐘楼は下ですね。

※鐘楼ですね。
陶製は前に

上中啓三(うえなか けいぞう、1876年(明治9年)6月29日 - 1960年(昭和35年)1月11日)は、
日本の化学者、薬剤師。ニューヨークで高峰譲吉の助手としてアドレナリンの発見に貢献し、
帰国後はアドレナリンの製造開発に尽力したことにより知られる。
1876年、兵庫県塩瀬村名塩(現:西宮市名塩)に生まれる。
10歳の時に大阪のミッションスクールに入学して英語や化学を学んだ後、
大阪道修町の薬問屋にて丁稚として働く。
1891年大阪薬学校(現大阪大学薬学部)に入学し、1894年には薬剤師国家試験に合格して薬剤師となる。
その後東京帝国大学医学部薬学科に入学し、「日本近代薬学の開祖」として
知られる長井長義のもとで研究生活を送る。
1899年に渡米し、ニューヨークの研究所に在籍していた高峰譲吉の助手となる。
そして高峰と共に牛の副腎からアドレナリンの抽出と結晶化に成功し、世界初となるホルモンの抽出を実現させた。
アドレナリンの研究後はパーク・デービス社(現ファイザー)等の製薬会社に勤務した後、
1916年に帰国。高峰が社長を務める三共(現・第一三共)に入社して、
アドレナリンや同じく高峰が発見したタカジアスターゼの研究開発に取り組んだ。
1933年、監査役を最後に三共を退職。1960年に83歳にて死去。




本堂

※本瓦~

雨垂れ受け

※見晴らし良いです~

境内風景~

※大釜~

お邪魔しました~
向こうに中国自動車道と
R176BPが見えてます。



教蓮寺さん
本堂脇目で~

※教行寺さん
山門

鐘楼
天守閣の様ですね~



屋根が…

※紙漉きの里
柿の実は赤く朱く~

キンカンは美味そうに~
空中散歩~
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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