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ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや! (by UFO先生)
緒方 洪庵(おがた こうあん、
文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日))は、
江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。
大坂に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。
天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、
号を洪庵の他に適々斎・華陰と称する。
妻の八重は、夫との間に7男6女(うち4人は早世)を儲け、
育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻であった。
洪庵の事業のため実家からの仕送りを工面したり、
若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、
多くの人々から慕われた。福沢は「私のお母っさんのような人」
「非常に豪い御方であった。」と回想し、佐野常民は、
若き日にうけた恩義が忘れられず八重の墓碑銘を書いている。
洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。
八重の葬儀には、門下生から政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど参列し、
葬列は先頭が日本橋に差し掛かっても、彼女の棺は、
2.5km離れた北浜の自宅から出ていなかったという。
八重の甥に紙幣製造に貢献した化学者の岸本一郎(1849-1878)がいる。
岸本は緒方宅で育ち、幕府派遣の英国留学生に選抜され、
日本の最初期の化学留学生としてロンドンで学んだ。
(Wikipediaより)
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