古/いにしえの面影       其の一阡四百五拾八
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2018年02月19日 月曜日
アップ日  2019年05月28日 火曜日
岐阜県美濃加茂市太田本町(中仙道太田宿)Ⅰ
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

中山道六十九次(なかせんどう-ろくじゅうきゅうつぎ)は、
日本の近世にあたる江戸時代に栄えた五街道の一つ中山道に設けられた、69を数える宿場の総称。
中仙道は、江戸・日本橋と京・三条大橋の間を結ぶ主要街道2路のうちの、山地側の1路である。
もう1路である東海道とは、江戸側は同じ日本橋から発するが、
山手と海沿いに分かれて西進し、近江国に入って草津宿で合流。
そこからは京までの区間を共有する。
また、江戸・日本橋から発する甲州街道とは、その終点である信濃国の下諏訪宿で合流する。
太田宿(おおたじゅく)は中仙道51番目の宿場。
美濃国加茂郡太田村(現・岐阜県美濃加茂市)に存在した。
太田の渡しは、中仙道の難所の1つであった。現在も宿場町の面影を残している。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

美濃太田駅から~
宿場の東からですね。
神様が祀られてました。



手摺り付の御家
料理屋さん?



飾り瓦

※一八銘

丸石の石垣が~



中仙道なんですね。



志賀 重昂
(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、
日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。
誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。
矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。
日本ラインの名は、大正2年(1913年)、重昂の命名によった。
美濃加茂市祐泉寺に記念碑が建つ。
また、恵那峡の名は、大正12年(1923年)、重昂の命名によった。
昭和36年(1961年)7月1日、岡崎市の名誉市民に推挙された。 


※考心助一銘
顕頌碑

太田稲荷神社

※木曽川
遠く雪の御嶽山

太田の渡しが在ったんですね。

※水量は多そうですね。

堤防には名残は無いですが~



岐阜県防災ヘリ
若鮎Ⅰ



訓練中です~

ん?

※水神
大師像

渡しの名残でしょうか?



昭和58年9月28日、観測史上最大となる洪水は、
中山道の宿場町として繁栄してきた中心街を
一瞬のうちにのみ込んだ。
台風10号によってもたらされた木曽川の氾濫によって
中流域の地域は軒下まで達するほどの浸水となり、
岐阜県美濃加茂市では総世帯数の約15%、
坂祝町では総世帯数の約12%が甚大な被害をこうむりました。
浸水面積は両市町あわせて290ha、
被害総額218億円という未曽有の災害となりました。
洪水の被害は、この地域だけにとどまることなく木曽川・飛騨川上流部までに及び、
岐阜県全体の被害額は約527億円にものぼっています。
(中部災害アーカイブスHPより)


※治水のしるべ碑

堤防から
街道へ~

※飾り瓦

街道風景



袖壁・虫籠窓

※甍の波

堤防は近く~

飾り瓦

火事が怖いですね



桝形ですね。



写真館



旅館も
料理屋も~

※見返って~

ありゃ~



小さな祠



祐泉寺さん
(ゆうせんじ)は岐阜県美濃加茂市太田本町にある臨済宗妙心寺派の寺院で、
山号は龍興寺。中山道の木曽川河畔にある旧宿場、太田宿の中にある寺として知られる。
美濃三十三観音27番札所。
文明6年(1474年)、東陽英朝(大道真源禅師)が当地に涌泉庵という
小庵を設けたのが始まりである。
東陽英朝は滞在中霊夢により木曽川の底に観音菩薩が沈んでいることを知り、
それを引き上げ本尊とした。
後に近隣で大火が起きた際にこの観音像が祭ってある堂宇まで火が迫ると火勢が衰え鎮火したため、
霊威ある観音像として滝場観音の異称がある。
永正年間(1504年~1521年)には開基を同じくする八百津町大仙寺の末寺となり
その寺領の管理を行っていた。
寛政5年(1628年)、徹禅和尚がその師の関市梅龍寺10世広雲和尚を勧請開山として
その末寺となるが、明治時代にはその下を離れて妙心寺の直末寺となった。
(Wikipediaより)


※五三の桐紋
元の飾り瓦

本堂

※観音菩薩像

木曽川から
引き揚げられている所絵馬

※中濃88か所

十六銀行
旧太田支店



金庫も其のままに~

※飾り瓦


旧吉田家住宅



お邪魔して~

※大八車

三和土が綺麗です。

※播隆上人
播隆(ばんりゅう、1786年(天明6年) - 1840年11月14日(天保11年10月21日)は、
江戸時代後半の浄土宗の僧。播隆上人と敬称される。
槍ヶ岳の開山者、笠ヶ岳の再興者や、活性化となった。
福井県坂井市丸岡町の護城山、岐阜県美濃市の片知山、各務原市の伊木山、
関市の迫間山、加茂郡八百津町の三鉢洞、七宗町の東ヶ山や、
長野県松本市の女鳥羽の滝などで修行する毎日を送っていたことでも知られる。
笠ヶ岳の東面の平坦地は播隆に因み播隆平と呼ばれている。
1828年(文政11年)7月28日 - 槍ヶ岳に初登頂、厨子を設置し、
阿弥陀如来・観世音菩薩・文殊菩薩の三尊像を安置した。
自身の登頂のみでは満足せず、多くの人が山頂まで登れるようにするため、
その後何度も槍ヶ岳に登り、その槍の穂の難所に大綱を掛け、
また、より頑丈な鉄鎖を掛けるよう尽力した。
鉄鎖を掛ける計画をした時にはたまたま天保の大飢饉があって
一部の村人はこの計画のせいにして計画実行を禁止されたが、
その後また豊作の年が来て再開された。
1840年(天保11年) - 美濃国太田(現・岐阜県美濃加茂市)でその生涯を閉じた。
(Wikipediaより)

カトブンさんの大先輩!

番頭さんの机

※坪内逍遥画讃姫屏風
軽いタッチですね。

宿場の様相~

※桝形見返って~

宿屋の面持ち



この辺りが一番
宿場の感じが残されています。



基本的には残されています。

※脇道は~

卯建が~

前には

残って欲しいですが…

※空き地の向こうに
土蔵の後ろ姿~

御代桜醸造さん




だちかん 夕月隠す 雲叱る



太田脇本陣 林家住宅、江戸時代に中山道51番目の
宿場である太田宿の脇本陣として機能していました。
創建年代は、主屋のうだつの鬼瓦に銘が記されていることから、
明和6年(1769年)と判明しました。
 林家は江戸中期、脇本陣を勤めるかたわら庄屋として
尾張藩太田代官の指揮下で宿の行政事務を取り、
また、家業として質屋や味噌・溜の製造販売も営んでいた旧家です。
最盛期には、東西25間の間口、土蔵9棟、馬屋3棟、離れ座敷などを持つ壮大な構えでした。
昭和46年に主屋・表門・質倉(しちぐら)・借物倉(かりものぐら)が
国重要文化財に指定され、続いて平成12年に、隠居家(いんきょや)・附便所・
附井戸屋・附塀5棟・宅地などが追加指定されました。
江戸時代を中心に建設された建物群がまとまって残っており、
大規模商家の屋敷構えを伝える数少ない貴重な遺構です。
(美濃加茂市民ミュージアムHPより)


※母屋前

「隠居家」は、最初に建てられた時期は不明です。
現在の建物は、文政12年(1829年)の家相図に基づいて修復されています。
創建以来たび重なる水害や虫害を受け、建物の他に塀や石積が崩れるなど
全体に痛みが激しい状態でした。そこで、平成13年度に隠居家・附塀などの調査を行い、
平成14年度から平成17年度まで、国庫補助事業として修理が進められました。
建物は一列三室型の町屋形式ですが、室内の数寄屋風(すきやふう)の
造作に隠居家らしい趣があります。
 なお、林家では「隠居家」という名称は使用しておらず、
通称として「西(にし)」と称していました。
使用方法は、主屋の座敷に対して、奥座敷的な存在でした。
(美濃加茂市民ミュージアムHPより)


※母屋の卯建
 
母屋の引き戸



母屋

※隠居家

中仙道会館

※多くの家並が
密集していたんですね。

お邪魔して~

※あの木は?

ん?
カメラの砲列!!

※お目当ては~
 
ヒレンジャクだそうで~
ヒレンジャク(緋連雀、学名:Bombycilla japonica)は、
北東アジアに生息するスズメ目レンジャク科に分類される鳥である。
日本では冬鳥として見られる。
日本などに飛来する冬の非繁殖期には主に果実類、ネズミモチ、イボタノキ、
ニシキギ、ヤドリギ、ノイバラ、ヤツデなどを食するが、
繁殖期である夏の間は昆虫食である。
ヒレンジャクは基本的に数羽から数十羽の群れで行動するが、
稀に100羽以上の大群となることもある。
(Wikipediaより)


ヤドリギが榎に
沢山付いています。



ヤドリギの種子を
食べに来ると伺いました。

※本来ならば
ヤドリギは駆除するんでしょうが~

3年振りで姿を見せたとか~



井戸

※この周りにも
飛来するとか~

エエ写真が撮れますように~

※パラグライダー

旧太田宿本陣門

※皇女和宮も訪れたと~
前には
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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