環濠かと思うような地形
※街並みが
一つの城郭のように~
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屋門に正月飾りも~
※集落の中に~
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トタン被せ家屋
※背高蔵~
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R24の高架道が~
※米田庄太郎博士生誕の地碑
米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年2月1日 - 1945年12月18日)は、
日本の社会学者。
奈良県奈良市杏町に生まれる。
1886年、大阪府立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)入学。1887年、
奈良英和学校に転じ、翌年に洗礼。
1891年恩師のアイザック・ドーマンが東京の聖三一神学校の
比較宗教学講師として嘱託されるにあたって助手として上京。
1895年に渡米し、ニューヨークの米国国監督派神学校に入学。
1898年、コロンビア大学大学院に入学しギディングスに師事し社会学や統計学を学ぶ。
1900年、コレージュ・ド・フランスに入学するために渡仏。ガブリエル・タルドに師事。
1901年、日本に帰国。同志社専門学校(現・同志社大学)教授
1907年、京都帝国大学(現・京都大学)で社会学の講座が開講されると共に
京都帝国大学嘱託講師となる。
1913年、建部遯吾に協力し日本社会学会の創立に関与。
1920年、京都帝国大学教授(1925年まで)。
1945年、疎開先の大阪府豊能郡東郷村で死去
ガブリエル・タルドやゲオルク・ジンメルたちの学説を日本に紹介し、
心理学的社会学を導入。社会思想研究の分野でも業績がある。
門人に高田保馬、大阪市の社会調査を主導した山口正などがいる。
また社会問題研究も行い、大原社会問題研究所の設立に助力し、社会福祉分野を担当した。
大杉栄や賀川豊彦などにも影響を与えた。
著書に『現代人心理と現代文明』『輓近社会学論』など単著33冊、
論文は278本、新聞などに寄稿したものは157余がある。
(Wikipediaより) |
木戸と格子戸
※ありゃ~
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トタンの下は
大和棟でしょうね。
※
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地蔵堂
※化粧地蔵尊
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ぶらぶらと~
※
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旧村路地風景
※飾り瓦
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此処にも地蔵堂
※此処は化粧無し
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常蓮寺さん
鐘楼
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風呂屋の煙突
※水路も~
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石敢當の様な
地蔵堂
向うの杜は辰市神社サン
※内部は多宝塔頭と
切断された地蔵尊
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元 神宮社
辰市神社サン
※道路挟んで時風神社サン
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先に時風神社サンへ~
境内摂社かと思われます。
※正月飾りも~
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石燈籠には神宮社銘
※真新しい扁額
建つ市でしょうか?
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参道~
※東(ひむがし)の市(いち)の植木(うゑき)の
木足(こだ)るまで逢(あ)はず
久(ひさ)しみうべ恋ひにけり
この歌は門部王(かどべのおほきみ)の東(ひむがし)の市(いち)の樹(き)を詠んだ一首。
この当時、門部王という人物は二人いてはっきりと区別がつかないようですが、
題詞からすると長皇子(ながのみこ)の孫で高安王(たかやすのおほきみ)の弟である、
後に臣下に下って大原真人(おほはらのまひと)の姓を賜った人物のようですね。
そんな門部王が東の市を詠んだ一首ですが、
「東の市の植え木の枝が垂れ下がるまで長い間逢わず、寂しいことだなあ。」と、
市に植えられている樹の枝が垂れ下がるまで長い間恋人に逢っていない寂しさを詠っています。
「東(ひむがし)の市(いち)」は、奈良の都の東(羅城門の東)にあった市で、
現在の奈良市杏町のあたり。
「市(いち)」は人々が食料や焼き物などを交換する場で、
緑蔭で食を給することもあったために樹が植えられていました。
そんな市の樹の枝が垂れ下がるまで長い間恋人に逢っていないとのことですが…
ただ、実際にはこの歌は「市の木」というお題で詠んだ題詠だったようですね。
あるいは宴などの席で詠まれたものだったのでしょうか。
そんな当時の東の市の様子が目に浮かんでくるようで、興味深い一首でもありますね。
(解説:黒路よしひろ 万葉集入門より)
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割拝殿舎
※手水鉢
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本殿舎前の可愛い狛犬
阿
※吽
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なにわ型狛犬
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本殿舎
社殿内狛犬
阿
※吽
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本殿舎風景
※本殿舎
飾り瓦
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脇から~
※長い参道見返って~
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