古/いにしえの面影       其の一阡四百六拾五
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2018年01月04日 木曜日
アップ日  2020年05月19日 火曜日
奈良県奈良市大安寺町(八幡神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗の寺院。
本尊は十一面観音。開基は舒明天皇と伝える。
南都七大寺の1つで、奈良時代から平安時代前半までは、
東大寺興福寺と並ぶ大寺であった。
縁起によれば、聖徳太子の建てた「熊凝精舎」(くまごりしょうじゃ、
「熊凝道場」とも)が官寺となり、その後に移転や改称を繰り返したとされる。
平城京に移って大安寺を称した時の伽藍は東大寺、興福寺と並んで壮大であり、
東西に2基の七重塔が立ち(七重塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみ)、
「南大寺」の別名があった。
この時代、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめとする
歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たしてきた。
平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で
主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。
現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末から近代の再建であり、
規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、
8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。
現代は癌封じなどにご利益(りやく)がある寺となっている。
参拝者が、竹筒に入れて温めた日本酒を飲んで健康を祈る「笹酒祭り」は、
奈良時代末期の光仁天皇の故事にちなむと伝承されている。
(Wikipediaより)

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石清水八幡宮
何で?と思えば~
都が平安京へ移り、天長6年(829年)には空海が
大安寺の別当に補されるなどしたが、仏教は東寺や延暦寺を
中心とした密教に中心が移ったために宗風は振るわず、
また境内や伽藍の焼失が相次ぎ次第に衰退した。
神仏習合では八幡神を勧請(貞観元年、859年)し、
石清水八幡宮を創建している。
寛仁元年(1017年)の火災では本尊釈迦如来像と東塔を残して
ことごとく焼失し、以後、かつての規模を取り戻すことはなかった。
文禄5年(1596年)の慶長伏見地震による損害の後、
近世には小堂1つを残すのみであったという。
(Wikipediaより)


※大安寺境内神社ですね。

大安寺東塔跡にも続く
参道~

※簡易的な地蔵堂

明治32年奈良近在53村の屎尿闘争を取り仕切り、
屎尿汲み取り組合を創設し組長となった
熊凝治郎左衛門の功績が刻まれてます。
(碑文より)

※元 石清水八幡宮
八幡神社碑

屋門入って~

※中門解体修理中でした。

手水鉢

※多くの石燈籠

境内摂社
祓殿神社

※式内神社

他所と違った感じの鳩フォント
01 02 03 04 05
06 07 08

※中門解体修理中資料

本殿舎
西側から~

※脇の菅原社、厳島社
突き当りには稲荷社

手前から
金毘羅社、宮玉社、春日社

※本殿舎
東側から~

御参拝経路

※参道見返って~

向うに若草山

※大安寺伽藍

西の京・大安寺コース
案内図

※大安寺縁起

手水鉢

※桟瓦ですが~

達磨御籤




大安寺歴代住侶供養塔

※大安寺南大門跡

弘法大師幼き頃の像
空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、
平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる
真言宗の開祖である。
俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)。
日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、
今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく
流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。
能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
(Wikipediaより)


※多宝塔

日露役
奉公記念碑

※殉国碑

戦功記念碑

※日露戦役
尚武団 銘
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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