山裾の参道突き当りに
二の鳥居が~
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扁額
八幡フォントですね~
※富国やはた(地名ですね)
八幡宮 碑
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神輿倉?
※佐見山城跡
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此処にも県社昇格記念碑
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石清水八幡宮からの分霊だそうで~
江戸時代の藩主建部氏は十代二百五十年にわたり
当社を産土神・祈願所として崇敬し、
政宇、政賢、政醇らが石灯籠や絵画などを奉納している。
※青葉紅葉
参道風景
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宝物庫?
※社門
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門の向こうに石畳が~
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左大臣
※右大臣
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うっとりします~
※日露戦従記念銘玉垣
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奇麗に整備されています。
※大正期の奉納者も~
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エエでしょう~
※奉納馬も~
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石段下に力石?
※こんな大きさです。
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拝殿舎
※木彫が綺麗に~
龍・鳳凰
名工が居たんでしょうね。
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拝殿舎前の狛犬
阿
※吽
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手水舎
※手水鉢の受けは~
亀ですね。
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清国沈没艦『定遠』の砲弾が
奉納されていたみたいです。
定遠(ていえん、定远)は、清国海軍の戦艦で定遠級の1番艦。
同型艦に鎮遠がある。
日清戦争が勃発すると、黄海海戦(1894年(明治27年)9月17日)に参加したが、
主砲による砲撃中、艦橋が崩壊、司令官丁汝昌も負傷し指揮能力を失った。
その後、159発の命中弾を受けるが、死者17人負傷者38人を出したのみで
作戦能力は健在であった。
黄海海戦の後は威海衛で防備に当たっていたが、
1895年(明治28年)2月5日に水雷艇の夜襲により雷撃を受けて擱座。
なおも砲台として戦闘を継続したものの9日には陸上からの攻撃を受け損傷した。
翌10日、日本軍による鹵獲を避けるために自沈。艦長の劉歩蟾も自決を遂げた。
艦体の一部は翌年引き上げられた。
福岡県太宰府市には引き上げられた定遠の艦材を使った「定遠館」という記念館があり、
門の扉は定遠の鉄板を使用している。
(Wikipediaより)
※青島守備
退營記念
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建部氏、
政宇、政賢、政醇らの石灯籠
※境内摂社
(聖社、天神社、稲荷社)
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屏風のような記念碑
※本殿舎の奥にも~
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本殿舎脇から~
※玉垣は御大典記念銘
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絵馬堂
内部はタイムカプセルですね。
※明治9年に奉納された
祇神
文字は昭和56年に改修されたとか
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多くの絵馬の中に
プロペラも!
前にも~
※日露戦争絵馬
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明治11年銘
武者絵
※昭和2年銘
陸軍航空隊
日本軍航空部隊は、観測気球の装備・運用を目的とし
1904年(明治37年)に編成され同年の日露戦争に従事した
臨時気球隊を原点とする。
大日本帝国陸軍飛行戦隊(ひこうせんたい、飛行戰隊)は、
陸軍航空部隊こと大日本帝国陸軍の
航空部隊における部隊編制単位の一つ。
通称は戦隊。帝国陸軍における軍隊符号中の略字はFRないしF。
1930年代後半に従来の飛行連隊から飛行戦隊へ改編されて以降、
支那事変(日中戦争)・ノモンハン事件・太平洋戦争(大東亜戦争)を
経て敗戦に至るまで、
陸軍航空部隊(ほかに陸軍航空隊・陸空軍・空軍・陸鷲とも呼称)において
中核となる実戦部隊編制単位であった。
(Wikipediaより)
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合戦武者絵
※明治43年銘
神功皇后図?
天照大神?
左の陣笠の人々は??
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神仏合習の神社図?
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庭園図
※武者絵
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獅子と鍾馗様?
※仙人図?
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天保期の絵馬
残念ながらカビが生えてます。
※よく見たら~
武者絵が~
赤穂浪士??
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見返って~
※石畳
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前のページが
旧市場地区
※京都から分霊されたことを読む
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お邪魔しました~
※キンモクセイの花の季節
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