R27の五老トンネルを東へ~
余部上集落へ~
※上本町交差点
近くの街並み
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R27挟んで
突当りには地蔵尊
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喫茶店
※なんて読むの?
ライオンさん
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中舞鶴歩道橋
向うの団地の左側が
東郷邸だそうで~
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C58 113号機
※海上自衛隊グラウンド脇です
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総監部前交差点に歩道橋
※造船所前歩道橋
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日立造船株式会社(ひたちぞうせん、英称:Hitachi Zosen Corporation)は、
環境装置、工場設備・産業機械、発電設備などを製造している
日本の機械・プラントメーカーである。
現在の主力事業は環境・プラント事業であり、造船事業は撤退している。
(Wikipediaより)
※ 歩道橋の向こうに東港
海上自衛隊 北吸係留所
青葉山には雲が掛かっています。
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東港は、もともとは漁港として栄えていたが、
1889年に帝国議会により軍港に指定されると政府によって大規模な開発が進められた。
1901年に鎮守府が開設されると、日本海軍が港湾のみならず、
本来単なる入り江に過ぎなかった東舞鶴地区の土地造成も行い、現在の形となった。
1904年の日露戦争時は東港より海軍艦隊が出撃し、日本海海戦で
ロシア帝国のバルチック艦隊と交戦している。
その後、軍需施設が建設、集積化されると軍港色を強め、
商業、貿易港の西港と住み分けるようになった。
アジア・太平洋戦争での敗戦によって帝国海軍は解体されたが、
現代では海上保安庁や海上自衛隊が基地を構えており、
日本列島の日本海側の防衛や海上警備において重要な拠点となっている。
近年では北朝鮮の工作船事件などで国防上の重要度が高まり、
舞鶴飛行場が建設された他、工作船の活動に備えるためミサイル艇2隻、
また日本海の戦略的重要性からイージス艦2隻も順次配備された。
(Wikipediaより)
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見慣れない風景ですね。
※五老岳からの流れ込みも~
クロダイも姿を見せてました。
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何事もない
日常が続きますように~
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あたご(ローマ字:JS Atago, DDG-177)は海上自衛隊の護衛艦。
イージス艦に分類されるあたご型護衛艦の1番艦。
艦名は京都府の愛宕山に因み、日露戦争期に活躍した摩耶型砲艦3番艦「愛宕」、
天城型巡洋戦艦4番艦「愛宕」、高雄型重巡洋艦2番艦「愛宕」に続き、
日本の艦艇としては4代目。
(Wikipediaより)
みょうこう(ローマ字:JS Myōkō, DDG-175)は、
海上自衛隊の護衛艦。こんごう型護衛艦の3番艦。
艦名は妙高山に因み、旧海軍妙高型重巡洋艦「妙高」に
続き日本の艦艇としては2代目。
(Wikipediaより)
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ひゅうが
ですね。
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海上自衛隊 舞鶴地方総監部
1901年(明治34年)
10月1日:海軍舞鶴鎮守府が置かれる。
舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)とは、京都府舞鶴市にあった
旧日本海軍の鎮守府。通称、舞鎮(まいちん)。
対ロシアの戦略上、日本海軍は日本海側へ海軍の軍事拠点を
設置する事が悲願となっており、1889年(明治22年)に、
湾口が狭く、防御に適しており、また湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど
軍港としては格好の地形であった舞鶴湾に白羽の矢をたて、
舞鶴に鎮守府を設置する事になった。
しかしながら、呉、佐世保の整備が優先されていたため、
舞鶴の軍港建設費用には日清戦争によって清国から支払われた
賠償金が充てられる事になった。
初めに設けられた海軍施設は1893年(明治26年)完成の石炭貯蔵庫で、
日清戦争による賠償金が充てられるようになると建設は飛躍的に進み、
1896年(明治29年)には臨時海軍建築部支部
(支部長:中溝徳太郎中佐)が設置された。
舞鶴は山地が多いため、敷地開削工事に多額の費用を要したが、
1899年(明治32年)末に土地造成工事はほぼ完了した。
これに並行して鎮守府諸施設の工事が始まり、1901年(明治34年)10月1日に
舞鶴鎮守府が開庁、初代司令長官は当時海軍中将であった東郷平八郎が任命された。
なお、1902年(明治35年)から1903年(明治36年)にかけて
舞鶴海軍工廠の建物の建設が開始されたが、
中核施設のドックが完成するのは日露戦争後である。
(Wikipediaより)
※海軍記念館
旧海軍機関学校大講堂
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海軍記念館(かいぐんきねんかん)は
京都府舞鶴市にある海上自衛隊舞鶴総監部内にある展示施設。
海軍記念館は、自衛隊員の教育に資することを目的として
1964年(昭和39年)5月27日に舞鶴地方総監部大講堂
(旧海軍機関学校大講堂)の一部を利用して設置された。
1901年(明治34年)に舞鶴の地に鎮守府が設置され、
初代司令長官に赴任した東郷平八郎元帥に関する資料の他に、
旧日本海軍の資料が約500点展示されている。
(Wikipediaより)
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海軍用飛行帽
※海軍用
飛行眼鏡
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東港は、もともとは漁港として栄えていたが、
1889年に帝国議会により軍港に指定されると政府によって大規模な開発が進められた。
1901年に鎮守府が開設されると、日本海軍が港湾のみならず、
本来単なる入り江に過ぎなかった東舞鶴地区の土地造成も行い、現在の形となった。
1904年の日露戦争時は東港より海軍艦隊が出撃し、日本海海戦で
ロシア帝国のバルチック艦隊と交戦している。
その後、軍需施設が建設、集積化されると軍港色を強め、
商業、貿易港の西港と住み分けるようになった。
(Wikipediaより)
※食堂にてのコーヒーカップは
桜に錨
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