其の一阡四百九拾二
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
撮影日 2018年07月18日 水曜日 アップ日 2020年07月01日 水曜日 |
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ワッカン~
資料として気になる街角 撮っておきや!(by UFO先生) 安寿と厨子王丸(あんじゅとずしおうまる)は日本の童話。 『安寿と厨子王』とも言う。悲劇的な運命にもてあそばれる姉と弟を描く。 前(さき)の奥羽五十六郡の太守、岩城判官正氏の一族は、 讒言(ざんげん。虚偽の悪行をでっち上げて人を陥れる事)によって筑紫に流された。 本国に残され落魄した正氏の妻と、その2人の子供:姉の安寿姫と弟の厨子王は、 正氏を訪ね求めて越後の直江津にたどり着いたとき、人買いの山岡太夫の手にかかり、 妻は佐渡二郎の手で佐渡に、姉弟は宮崎という人買いの手で 丹後由良湊の長者である山椒太夫にそれぞれ売り渡された。 山椒大夫のもとで姉弟は酷使された。 弟は1日に3荷の柴を刈れ、姉は1日に3荷の潮汲みをしろ、間があれば藻塩を焼く手伝いをしろ、 糸を紡げ、と追い使われ、弟は柴刈り払う鎌を怨み、姉は潮汲む桶に泣いた。 ある日、安寿は厨子王に勧めて密かに逃れさせようとし、罰として額に焼け火箸を当てられた。 しかし肌身離さぬ守りの地蔵尊のおかげで痕が付かなかった。 そして姉弟はついに、再会を約して逃亡を図った。 姉を残して都へと行くのをためらう厨子王に、安寿姫は強く勧めて、弟が去った後、 自身は山椒館の近くの沼に身を投げて亡くなった。 その亡骸は村人により丁重に葬られた。時に永保2年正月16日、安寿16歳、厨子王13歳であったという。 一方、厨子王は丹後の国分寺に逃げ込んで寺僧に助けられ、京都七条朱雀の権現堂に送られた。 さらにまた摂津の天王寺に寄食するうちに梅津某の養子となり、ついに一家没落の経緯を朝廷に奏上した。 結果、判官正氏の罪が赦された上に旧国を与えられ、讒言者の領地は没収されて厨子王に下賜された。 安寿姫の霊はその後も母と弟を守護し、岩城家再興の機運にめぐまれた厨子王は、 丹後・越後・佐渡のなかで若干の土地を得たいと願い出てこれを許された。 厨子王は、領主となった丹後に行き、かつて匿ってくれた国分寺の僧侶に謝し、 山椒大夫とその子三郎とを鋸挽きの刑に処し、また越後で山岡太夫を討ち取った。 報恩と復讐を果たした厨子王は、生き別れた母の行方を求めて佐渡にたずね歩くと、 片辺鹿野浦で老いた瞽女(ごぜ)が鳥を追う唄をうたっているのに巡り会った。 「安寿恋しやホゥヤレホ。厨子王恋しやホゥヤレホ」。 厨子王は、この歌を聞いてこれぞ母と知り、駆け寄りすがりついた。 うれし涙に、盲いた母の眼は奇(くす)しくも開き、母子は再び抱き合ったという。 (Wikipediaより) (※=マウスポインターを画像上に置いて下さい) やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば… 気を抜いたらあきません~ 何時のが出てくるか判りまへんで! 袖擦り合うも他所の縁~ いつまで知った景色が在るのやら。。 頑張ってボチボチ更新中…^^;
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