古/いにしえの面影       其の一阡四百参拾三
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2018年04月04日 水曜日
アップ日  2019年05月09日 木曜日
大阪府枚方市楠葉中之芝(楠葉台場・修園院)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

楠葉台場(くずはだいば)は、淀川左岸の大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目にある台場跡。
国の史跡であり、楠葉台場跡史跡公園として整備されている。
石清水八幡宮のある男山の西側に立地し、西隣には淀川が流れ、京阪電気鉄道橋本駅の南側にある。
北には行基が建立した行基四十九院の一つである久修園院がある。
水堀を備えた西洋式の稜堡式砲台である。
面積は約3万8千平方キロメートルであり、火薬庫の他大砲を3門備えていた。
京街道を付け替えて台場の中を通るようにしており、そのための番所も設けられた。
隣接して淀川の通航監視のため船番所も設けられた。
幕末期に作られた台場は数多いが、欧米列強の外国船への備えが主目的であるため、
多くは海岸に造られた。
内陸に入った河岸に造られた例は、この楠葉台場と淀川対岸の高浜台場(大阪府島本町)のみである。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

(今昔マップより)
明治期の地形図では、
台場は圃場に成って居ます。

※台場の山手に
猿田彦神社サンが在ります。

桜の時期でした。
神社鳥居正面

※鳥居付の下の磐座
北磐座

本殿舎

※八幡大神が男山に登られる際に
山崎の地にて一夜御休憩された。
翌朝、猿田彦神が御共をして男山に登られた。


石段上に~

※南磐座

御神体
北側と夫婦磐座

※手水鉢

昔の地形図では、
山の中の圃場だった~

※下の段に着けば~
国史跡楠葉台場跡

広い芝生広場~

※西には京阪電車
その向こうに淀川が~

北側より~
嘉永7年(1854年)、ロシア帝国のエフィム・プチャーチンが指揮する軍艦「ディアナ号」が大阪湾に現れた。
文久3年(1863年)、京都守護職である会津藩主松平容保は、
外国船が淀川を遡って京都に攻め込んで来ないように淀川の両岸に台場を建築することを建白し、
勝海舟が奉行となって建設を始めた。
しかし、実際には長州藩などの反幕府側の人物や過激派を
京に入れさせないための関門であり、要塞であった。
淀川右岸には高浜台場、少し奥に梶原台場が造られ、左岸の楠葉台場は慶応元年(1865年)に完成した。
南側から攻め上ってくる船や軍に向けて造られたので、南側だけが稜堡式の形式となっていた。
(Wikipediaより)


※背後は竹林~

北側には住宅地が~

※猿田彦神社サンは
此の方向に~

南側から~
向こうに天王山が~



慶応4年1月3日(1868年1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、
江戸幕府軍は薩摩藩・長州藩の新政府軍に敗北し、藩に裏切られて、
軍勢を淀川左岸の男山橋本に集め、立て直しを図った。
主力は橋本陣屋に集結し、楠葉台場には小浜藩が詰めて守備についていた。
ところが6日、淀川右岸の大山崎や高浜台場、梶原台場を守備していた津藩が裏切って旧幕府軍に砲撃を開始、
楠葉台場はこれに応戦して高浜台場への反撃を行った。
しかし、新政府軍が淀川左岸に入って来たので、軍勢は総崩れとなって大坂に退却を開始した。
楠葉台場は、南側こそ堀幅も大きく稜堡式で造られていたが、北側は堀幅が小さくて砲台を備えていず、
火薬庫も北側の端にあった。
北から攻められた場合を想定していず、防御陣地としては役に立たなかったので
、放棄され、新政府軍に占領された。
明治時代になり、付近は荒れ果ててしまっていた。
やがて南側の堀だけを残し、土塁は潰され、他の堀は埋め立てられて田畑となった。
1910年(明治43年)には京阪電気鉄道が開業し、遺構の西側は完全に潰された。
2005年(平成17年)に古文書から場所が特定されて、その後、枚方市が発掘調査を開始。
2011年(平成23年)2月7日、「楠葉台場跡」として国の史跡に指定された。
この付近一帯は、古墳時代から中世にいたる複合遺跡である楠葉中之芝遺跡でもある。
(Wikipediaより)




戊申役橋本砲台場跡

※三宅安兵衛遺志碑
前には~
01 02 他にも多数~

堀が復元されてました。

※京街道が台場の中を
通っていたとか~

竹の囁き~

※桜の煌めき~

淀川からの取水口



番所が有り人改めをしてたとか~

※兵どもが夢の跡~

北側に寺院が…

※略縁起
行基菩薩は神亀二年(725) 9月、多くの弟子たちと共に各地行脚の修行をしながら
この近くの山崎川のほとりにさしかかりました。
その際、以前ここにあった橋が今は無く、人々が不便な思いをしていると知り、
ここに山崎橋を架けられました。
久修園院は、この時に行基菩薩の発願で起工されたお寺で、行基四十九院のひとつ、
通称「釈迦堂」、または「木津寺」として親しまれています。
創建当時の境内は七堂伽藍が建ち並んだ大寺で、聖武天皇の勅願所でありました。
しかし年を経て、大阪夏の陣の元和元年(1615)に至り、豊臣方の敗走兵が当院に逃げ込み
放火自殺した事により堂塔はことごとく消失します。
その後、延宝八年(1680)、中興の祖・宗覚律師により再興されました。

宗覚律師は博識多芸で儒仏はもちろん医学・宗教学・地理学・天文学・武芸・音楽・絵画・彫刻などに
通じた枚方が生んだ偉大な文化人でもありました。
慶応四年(1868)の「鳥羽伏見の戦い」の際、旧幕府軍が当院を橋本本営として本陣を構えたと言います。
(西国愛染十七霊場 公式ホームページより)


残念ながら
この日は休館でした~

※大界外相
結界石なんですね。

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
ページトップへ戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.